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プレゼンテーターに求めること ~三千世界は舞台なり~

プレゼンテーションとは何だろう?
プレゼンテーション、ご提案、目論見書提出と様々な言葉がある。また結婚に際してのプロポーズも究極のプレゼンテーションと言っても良いかもしれない。

私生活において、また成熟化した市場において、新たな価値や需要を創りだすためには不可欠なものである事は疑い得ないものである。


営業行為において、お客様(流通業、生活者)の課題を解決するための方策を示し、価値提供者と流通と生活者の3者のWIN-WIN-WINの関係を構築する提案型営業という言葉が語られ出して、約20年が経過している。提案型営業という言葉を英訳した言葉がソリューションセリングであるといわれている。


すなわち、課題無き所、課題探索能力、課題解決力無き所には提案は存在しないと言っても過言ではないのであろう。そこで、プレゼンテーションの元来の意味は一体何なのかを考えて行きたい。


釈迦に説法となるものの、元来はラテン語のプレゼントという言葉の派生語だそうである。プレゼントの元来の意味は「上演する」「人の前に差し出す」と言ったことだそうである。すなわち、相手が求めないのであれば、元来存在しないものであるのかもしれない。


また同様に、相手が潜在的に持っている未知覚ニーズがなければ存在しないということとなる。究極は演者と聴衆が併存して初めて成立するものである。ここでは、プレゼンテーションというものをアーティストのライブパフォーマンスと考えれば良いのかもしれない。


一般的には、特定個人の印象は外見で70%程度決定するといわれているが、誰であれ、自らが好きなアーティストでなければ、コンサート会場に足を運ばないであろうし、アーティストサイドも、観客の関心を分析する中で、コンサートの構成を決定するであろう。自らの自己表現の場であると同時に、観客が歓喜するという行動の変容が必須与件であろう。


そして、何よりも観客が勇気なり、喜びなり、共感なりを得なければならないのである。アーティストの方々や様々な場で御講演等なさる方々のお話を伺うと、最初の5分間程度が勝負であると仰る方々が多い。最初の5分間でオーディエンスの求めるコトが何かを把握し、当日のライブアクトを修正するということなのであろう。


シェイクスピアの「お気に召すまま」の中の名台詞に次のような台詞がある。
「All the world's a stage.And all The men and women merely players.」(三千世界は舞台なり。人はみな役者。)

 
かつての舞台は屋外が中心で台詞中心であったという。現在の劇場で、大がかりな舞台装置を活用したものとは異なったものであったという。現在の演劇の中ではストレートプレイを想像すれば良いのかもしれない。そこでは、演劇を観るだけではなく、聴くといった事が大きなポイントとなり、聴衆は自らの五感を研ぎ澄まして、一つひとつの台詞から想像力を膨らませ一時を過ごしたといわれている。


台詞から創造力を膨らませる時点で、聴衆はすでに自らが主人公である役者そのものとなっていたのである。今日のプレゼンテーションの場合、様々な機器を活用し(代表的なものはパワーポイント等)行う場合が多いが、本来のプレゼンテーションは「相手の態度を変化させる」という観点で考えた場合、シェイクスピアの時代の演劇に範を求める必要があるのではないか。


情報革命がもたらしたモノ
現代はIT技術の進化により、情報の同時性と獲得平等性、獲得瞬時性が担保される時代となっている。同時に、経済社会においては、企業はCSRの観点から、かなりの情報を公開する時代となっている。また生活者においてもSNSの進展により情報の交換流動性が高まっているといえる。


極言すれば、知恵のオープン化が進展している時代となったと言える。そうした中で、最近コンサルティングファームや企画代理店の方々から次のようなお言葉をしばしば聞くようになった。「最近クライアントから求められるコトは全体企画ではなく、クライアントが知りたい情報だけになった。企画全体から予算を考える事が難しくなってきた」というものである。


悪い事例で恐縮であるが、上位者が権力を担保するための一つの手法として「自らが持っている情報や知恵を秘匿し、他の人々との情報格差や知識格差を発生させる」というものがある。時代と情報革命は、そうした古典的な手法を過去のものとしてきているようである。


従来は、業務の遂行にあたり、様々な企画の立案、実行にあたり「丸投げ」、すなわち、プレゼンテーションを頂いた方(企業)にすべてお任せするということが散見されたものである。


しかし、現在は悪しき「丸投げ」は影をひそめたのではなかろうか。プレゼンテーションを受ける場合には、自らが知りたい事のみに特化したプレゼンテーションを要望する事が多いのではなかろうか。プレゼンテーションを依頼するサイドがすでに様々な情報ツールを活用し、知識獲得を行った上で、自らでは獲得できない情報や概念のみを求める事態となっているのではなかろうか。


ある意味では、シェイクスピア的に言えば、全ての人々が役者化してきているということであろう。そのような時代に役者が他の役者に求めるコトは一体何なのであろうか。


プレゼンテーターに求めるコト
ある意味では一億総役者の時代が訪れたのかもしれない。そうした中で、プレゼンテーターという役者に聴衆という役者が求めるコトは自分が持っていないコトを持っている事、また真の意味での深い教養性を基盤とした人間というものの魅力ではなかろうか。


情報の共有化という耳触りの良い言葉が囁かれているものの、情報というコトをインフォメーションとインテリジェンスに分類する必要がある。「情報は人に付く」、別の言い方では「情報は人に尽く」という言葉があるが、単なるインフォメーションでもインテリジェンスまで昇華できうる人は限られる。


結果として見ると、結局はプレゼンテーターの選択基準は最終的にはプレゼンテーターの人間としての魅力、人間力、またはそのプレゼンテーターが所属する企業力ということとなるのではなかろうか。


ブランドの持つ機能としては「識別」「品質保証」「象徴性」といったものが中心かと思われる。また、ブランドの成立与件としては「独自性」「明瞭性」「継続性」等が考えられるが、プレゼンテーターに求められるコトは真にこのブランド力ということにならないであろうか。衒学的な外連味が強いプレゼンテーションが脚光を浴びた時期があったのも事実である。


しかしながら、今最も求められるコトはプレゼンテーターとしての人間力磨き、企業としての企業力磨きなのではなかろうか。昨今、短時間でのブレゼンテーション磨きが盛んになっているという。


前述したように、相手(プロフェッショナルな聴衆)の心を掴むには冒頭5分がポイントといわれる中では、短時間で自らの人間力を相手の心に理解させ、そして想像の翼を広げさせるためのトレーニングとしては最適であるだろう。「商品や企画を売る前に先ず自分を売り込む」。昔から言われている事であるが、今一度、この言葉を噛みしめる必要があるであろう。

 

中島  聡   (なかしま  さとし)
株式会社明治 営業企画本部営業企画部 営業企画部長
高千穂大学 客員教授
明治大学大学院 グローバルビジネス研究科 講師

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