【第5話】考 - 望・観・問・論・繋・熟 -

漢字マンダラでは、”変”、“知”、“理”、“道”に対して、それぞれに通じる漢字群を配置した(図1)。マンダラの右下部は “知”に繋がる漢字群である。“知”を起こすには、あるいは“知”に対応するには2つのアプローチがある。一つは“考”であり、もう一つは“結”である。そして、今回の話では、“考”を実現するのに必要な”望”、“観”、“問”、“論”、“繋”、“熟”という6つの要素(文字)を選んだ。

図1. 漢字マンダラ

 

“考”という漢字は、「耂(長寿の老人を横から見た形)+丂(曲がった小刀→詰まって曲がる→突き詰める)」からなり、寿命を極めた人→物事を突き詰めることから、「かんがえる、くらべる、しらべる」という意を表わす。“考”を使った熟語には、考案、考究、考察、思考、熟考、…がある。

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食が身体のエネルギーであるのに対し、知は「思考のエネルギー」である。また、知は単なる知識(knowledge)ではなく、知性(intelligence)と言える。知識が「知ること、理解すること」であるのに対して、知性はものごとを知った上で「考えて判断する能力」のことである。すなわち、“知”には“考”が必要なのである。 また、「知」は人がいるところ、どこにでも小さな知として分散して遍在している。そして、人類の歴史は、その分散した小さく混沌とした知を、束ねて大きく秩序だった知に「結合」して来た。世紀の大発明、大発見といえども過去の知の積み重ねなくして成立しなかったのである。異なる知を結びつけることで新たな知が生まれる。知は、小さな知の結合した結果である。経済学者シュンペーターは「イノベーションは新結合である」という言葉を残している。諺にも「三人寄れば文殊の知恵」とあるように、“知”には“結”が欠かせない。“結”に関しては、次回に譲ることにして、今回は、”知”と”考”について考えてみる。

20世紀の繁栄をもたらしたのは、近代西洋が産んだ科学の力であることは誰も否定できない。一般的に、西洋の知=(自然)科学と捉えられている。そうした西洋の知には、要素還元主義的、つまり「突き詰めて、区分する」考え方が背景にある。一方、東洋の思想には、全体論的(ホリスティック)、「全体を全体として捉える」考え方がある。言い換えれば、西洋の思考は分析的であり、東洋の思考は包括的である。「大きな木を見る」西洋思考と「森全体を見渡す」東洋思考の違いといってもよい。

東洋の知には、中国の易の哲学、陰陽五行の思想、インドのウパニシャッド哲学、アーユルベーダの生命観など実践的かつ体系的な知がある。これらの東洋の知は、どちらかというと「科学」(=西洋の知)として処理できない「“非”科学」として扱われてきた。しかし、西洋、東洋の知ともに長所、短所があり、お互いに補い合う「知」を創り出すことが必要である。
それでは、ここで何をしたらよいだろうか。新たな「知」を創り出すためには、従来のものごとに対する考え方、取り組み方を新たなものにする必要がある。そのためには、「視点」を変えることが有効である。そこで、西洋と東洋の思考を両睨みして、両者を一体化することを提案したい。すなわち、自己を中心とする“円”思考に対して、両者を二つの焦点とする“楕円”思考である。

東洋の知を科学とは“異なる”もう一つの科学、言わば“異”科学と捉え、この対をなす科学(西洋の知)と異科学(東洋の知)の二つを融合させることで、もっと大きな「“汎”科学」ともいうべき第三の知(科学)を構築すべきではないだろうか(図2)。この第三の知(汎科学)は、従来の「西洋の知」でも「東洋の知」でもなく、双方の優れているところを互いに採り入れ、欠けているところを相補う形で生まれてくる新しい次元の知的体系である。
この汎科学という概念でものごとを思考すると、いままで存在しても見えなかったものが見えてくる筈だ。汎科学の視座を持って、従来にない新しい切り口でものごとに取り組めば、新しい世界が見えてくるだろう。

図2 第三の知(汎科学)

 

次に、“考”を実現する6つの要素の話に移る。”望”、“観”、問”、“論”、“繋”、“熟”の順に進めていく。

 

望 → 考

“望”という漢字は、「亡(←臣:遠方を見る目の形)+月+壬(つま先で立つ人を横から見た形)」からなり、月をながめる、遠くを望み見ることから、「のぞむ、まちのぞむ、ねがう」の意に用いる。“望”を使った熟語には、望遠、望外、希望、眺望、展望、…がある。

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“望”には、「展望」のように「遠くを見る、見渡す」意味と、「希望」という「ねがう、まちのぞむ」意味がある。「考える」にあたっては、二つの意味ともに大切であるので、ここでは、それぞれについて“望”と“考との関係性について述べる。ちなみに、今回、“考”(思考)について考える上で、外山滋比古の『思考の整理学』1)を参考にさせていただいた。

まず「展望」であるが、空間的に広く遠くまで「見渡す」ことと、時間的に将来や事の成り行きを「見通す」ことの意味を持つ。さらに、「将来を見据えて、今から何をすべきか考えること」というように、考えることまで含んだ使われ方もされている。
「考えることとは、(まだ明確な思考の形をとらない)想念を思考化していく作業」だという。「いわば幾重にも衣服につつまれている状態に対して、その着物を一枚一枚脱がせていくようなもの」なのである。そして、「結論のはっきりした形の思考は、結末への見通しが立っている」、つまり明確な思考とは、展望が描かれている状態である。1)
このように、明確な思考とは時間的な意味の展望(見通し)が前提であるとともに、空間的な展望(見渡すこと)も必要である。物事を大きく捉え、全体を大きく見渡すこと、洞察力と言ってもよい。着物を一枚一枚脱がせていくには、片側からだけ無理やり引っ張るだけでは難しい。着物をどう羽織っているか、つまり、ものごとを取り巻く環境や社会をよく見渡すことが思考には大切なのである。さらに言えば、幾重にもつつまれている衣服の上辺だけを脱がせるのではなく、本質にまでたどり着くまで脱がせることが本当の思考と言える。

続いて「希望」と「思考」との関係性であるが、外山氏は、以下のような内容を述べている。「ものを考えるのは、なかなか、うまく行かない。同じところを堂々めぐりして、埒が明かないことが少なくない。そんな場合、必ずできる、いずれはきっとうまく行くと自己暗示をかけるのである。」
つまり「考える」ためには、必ずうまく行くという「望み」を持つことが大事だと筆者は言う。先に述べたように、考えることとは、想念を思考化していく、いわば着物を一枚一枚脱がせていくような作業である。そう考えると、思考には多大な根気や気力が必要とされる。希望というのは、そのための元気を与えてくれる根源と捉えるべきものである。言い換えれば、希望を持たないことは、考え続けることを諦めてしまうということになる。
企業でも、希望を持って夢を追いかけ続けることで、そこで働く人が元気になり、会社にも活気があふれ、そこからよい製品やサービスが生まれてくる。思考も同じことである。希望を持つことで、考える元気が生まれ、考え続ける根気や気力が湧き、よい思考につながるということであろう。

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1) 外山滋比古『思考の整理学』(筑摩書房、1986年)

 

観 → 考

“観”という漢字の本字は“觀”。「雚(=鸛〈こうのとり〉)+見」からなり、ぐるりと周囲を見まわす意を表わし、「みる、みきわめる」の意を表す。“観”を使った熟語には、観察、観測、観念、客観、主観、…がある。

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“観”を用いた言葉に「観天望気」がある。これは空の状態をよく「観察」して、雲の動きや色、形、風の向きや温度、湿度を身体で感じながら、天気を「考える」(予測する)ことを言う。「夕焼けの翌日は晴れ」「山に笠雲がかかると雨」といった言い伝えはよく知られているが、観測技術の向上した現在でも、狭い範囲での正確な天気予測は難しく、人が直接観察して判断材料に加えているのである。このように、天気予報の世界でも、予測、すなわち、将来について考える上では、観察することが不可欠なのである。

さらに、単に観察するというだけでなく、「どのように観察するか」も思考に大きく影響してくる。『思考の整理学』では、カクテル法という思考方法が紹介されている。「ある問題について、AからDまでの説があり、自分が新しくX説を得たとき、X説に固執したり、最も近い説だけを肯定したりするのではなく、AからDまでとXをすべて認めて調和折衷させる」思考方法である。
そして、「おいしいカクテルをつくる(=すぐれた思考)には、主観を抑えて、よいものとよいものとが結びつきやすくする」ことが大事だという。つまり、ものごとを客観的に「観て」、それが持つよいところを見出すことが、すぐれた「思考」の出発点となるのである。これは“考”の項で述べた楕円思考に通じるものがある。

楕円思考の話の際には、西洋と東洋には思考の違いがあることを述べた、思考の違いは、ものの観方の違いでもある。このことは、西洋と東洋の医学において、それぞれ「人間をどう観ているか」を見れば、違いがはっきりとする。
近代の西洋医学は、身体の臓器や部位、症状ごとに病気を細分化し、それぞれの症状に応じた薬剤と対症療法を開発してきた。その結果、専門以外のことには関心が薄く、「人間を診るよりも臓器を診る」という専門医が生まれてきた。これに対して東洋医学では、病気を統体(人体を一つのシステムとしてとらえる)の乱れとみなし、生体のバランスの回復を治療の基本においている。つまりは、西洋医学では、人体をどこまでも細分化して観て、分析的に思考する。一方、東洋医学では、人体を統体として観て、包括的に思考する。医学の分野では、西洋と東洋のものの観方と思考の違いが鮮明に反映されているのである。

このように、同じものごとを見ていても、どのように「観察」するかによって「思考」は大きく変わってくる。そこには、歴史や文化、風土、環境といったことも大きく影響している。われわれ日本人は、本性的には東洋的観察眼を持ち、東洋的思考様式を有しているのに、最近は、西洋的思考に偏ってしまっている。しかし、行き過ぎは危険である。これからは、分析的でありながらも包括的、包括的でありながらも分析的に「観る」眼を養っていくことを大切にしたい。

 

問 → 考

“問”という漢字は、「門(神を祭る戸棚の両開きの扉の形)+口(祝詞を入れる器の形)」からなり、神の前で祈り、神意を問い、神の啓示を求めることから、「口で聞きただす」の意を表す。“問”を使った熟語には、問題、問答、学問、疑問、質問、…がある。

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ここでは、よい「問い」は、よい「考え」を生み出すということをお話したい。ソクラテスの産婆術と呼ばれる問答法がある。これは、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが本質に迫るために編み出した問答法である。相手に「問い」を投げかけ、それについて「考える」ことを通じて本質に迫っていくことを目的とした。とりわけ世の中で常識とされていることをわざわざ取りあげて問答することで、常識とされていることであっても、つきつめて考えると知らない、分かっていないことが見えてくる。この問答法によって、物事を本質的に考えることの大切さと難しさを訴えた。時には、無知の者同士が「問う」ことと「考える」ことを繰り返すうちに、新しい知が生み出されてくることから産婆術と名付けられたという。

現代では、社員にコーチングの研修を受講させる企業も増えている。部下や同僚が持っている「知」を引き出し「思考」を深める、そのための触媒の役割が重要であることが認識されてきた。よく知られた例として挙げられるのは、『ハーバード白熱教室』のマイケル・サンデル教授であろう。
サンデル教授は、学生から出た意見に対して「今の意見から、こういうことも言えるのではないか」とか、自分なりの解釈を加えて「こういう話と組み合わせてみると、どうだろう?」といった「問い」を投げかけ、学生全員の思考を刺激する。そうすることで、教室全体がさらに思考を深化させていくのである。

コーチングする側は答えを出すのではなく、相手側に「考え」させるための「問い」を投げかけることに徹することが役割である。そして、よい考えに導くためには、問いの中に、相手に深く考えさせるための情報を加えなければならない。相手の意見に対して、自分が持っている知識や経験をもとに、新たな視点を提示する。そうすることで、相手も異なるものの見方があることに気づき、新たな視点で考えることにつながっていく。

しかし、なかなかサンデル教授の域まで達するのは難しい。さらに一人で考えるときは、自問自答が必要である。その際に、よい「問い」として、心得ておくべきことを一つ挙げるとすれば、「どのように」という手法の問いに終始するのではなく、「何を、何のために」という本質的な問いに向き合うことである。「仕事とは何だろうか」「会社とは何だろうか」というような、本質に迫るような問いは、仕事に真剣に取り組む中から、自ずと生まれてくるものである。そして、よい問いは、また更なるよい問いを呼ぶのである。いつも本質的な問いを持っていると、そこに生きる喜びも湧いてくる。

 

論 → 考

“論”という漢字は、「言+侖(順序を追って連なるもの)」からなり、筋道をたてて言うことから、「いいあらそう、はかる、とく」の意に用いる。“論”を使った熟語には、論議、論考、論理、結論、推論、…がある。

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最初に“論”と“考”の違いについて考えておく。「論ずる」とは筋道を立てて述べることであり、「考える」とは筋道を立てて頭を働かせることである。ともに筋道を立てることは一緒で、その後、述べるのか、頭を働かせるかの違いである。一般的に、述べる前には頭を働かせることが必要であるから、行為の順番としては、「考→論」と言える。ここでは、“考”のためには、“論”も大切であるという話をしたい。

『思考の整理学』によれば、思考の整理の方法の一つとして「まず、本を読んで、情報を集める。それだけでは力にならないから、書いてみる。たくさん書いてみる。そして、こんどは、それに吟味、批判を加える。こうすることによって、知識、思考は純化される」ことを挙げている。ここでいう「書く」ことは、「論じる」ことを紙に残す行為だとみなすと、考えるためには、論じることを積極的に繰り返すことが大切だということである。

このことは、一人の場合よりもチームのような多人数の場合の方が分かり易い。チームを運営していく上では、議論、討論は欠かせない。様々な問題に対して、チームとして「考えて」結論を出すために、この議論、討論といった「論」を重ねることで、チーム全体の「考」が純化され、最終的な結論に至るのである。これは単なる「考→論」という一方通行ではなく、「考→論→考→論→‥」という、互いの「論」に刺激を受けながらスパイラルに「考」が研ぎ澄まされて、最終的な「考」に辿り着くというイメージである。すなわち、よい「論」なくしては、よい「考」には至らないのである。

ここで、「論」を重ねる上で、注意すべきことがある。現在は、物事を何でも「論理」で扱おうとする傾向にあることだ。「科学的」と称して論理を先行させてしまい、精神的な拠り所である「倫理」が後回しになっているきらいがある。ここで言う論理とは議論の筋道、つまり思考の形式・方法といった物事を進める時の経路を指す。一方、倫理とは人の生き方、つまり道徳や品格に近いもので、経営で言えば企業が踏み行うべき道、企業のあるべき姿を指す。倫理の出発点は、我々日本人が持つ、自然への畏怖・畏敬の念、そして「自然に感謝しながら自然と共に生きる」という精神文化である。

よい「考」を生み出すためには、よい「論」を重ねることが大事であるが、単に論理だけを振りかざすのではなく、そこにはしっかりとした倫理を中心に置いた議論がなされねばならないことを忘れてはいけない。

 

繋 → 考

“繋”という漢字の本字は繫。「毄(接触する)の略字+糸」からなり、接触したものを糸でつなぐことから、「つなぐ、つながる」の意を表す。“繋”を使った熟語には、繋争、繋属、繋留、繋累、連繋、…がある。但し、“繋”は常用漢字でないため“係”が使われる(係争、係属、係留、係累、連係、…)。

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私たちは、ものごとを東洋と西洋、過去と現在、人間と自然などと分けて考えがちだが、この地球上のすべてのものは、実は一つに「繋がって」いる。山も川も海もひと続き、東京の空とニューヨークの空も繋がっている。もっと大きくは、地球もまた宇宙の星辰と繋がっている。そう考えると、ものごとを個々に区別したがる私たち人間のこだわりが愚かに見えてくる。

そんな視点で自然界を見ると、人間と動植物との境目もしだいに消えてゆく。みんな繋がりのある仲間なのである。チャールズ・ダーウィンは言う、「人間が生物界の中心ではない」と。そんな思いで動植物たちと接すると、彼らから学ぶことは実に多い。普段とはちょっとだけ「思考」回路を変えてみる、区別へのこだわりを少しだけ捨て、心を開く。すべては繋がりから成り立っていることから物事を考えてみる。そうすれば、いままで身の周りにあっても気づかなかったものごとが、新鮮に見えてくる。新しい発見がある。思わぬ気づきで新しい考えが湧いてくるのではないか。

アナロジーという思考法がある。目指す問題を解こうとする際、対象そのものの究明をひとまずおいて、全く違う物事の間にある共通点を発見し、類推を成立させる。物事の関係性、つまり「繋がり」に着目して考える思考法である。ここでは、現在のビジネスが取り組むべき課題であるダイバーシティ(多様性)について、アナロジーで考えてみる。

ダイバーシティは、集団を構成する個の多様性を尊重しながら、同時に個を束ねて集団(組織)の力にどう変えていくかが問題である。この問題を考えるとき重要なのは、関心の中心部である人間とか組織といったことに目を向けることである。ただ、中心にあることは、よく見えるはずなのに、見えていても、よく見えない。
そこで、人間とか組織とかを忘れて、ダイバーシティのイメージに似たものごとを探してみる。そうすると、日本伝来の石垣づくり(野面積み)が思い浮かぶ。石垣は、大小さまざまな石を上手に組み合わせ、積み上げていくことで地震にも負けない強さを発揮する。野にある自然のままの石(野面石)は、大きな石も小さな石もあり、形も一つひとつ違う。これらの石を上手に積み上げていくことで、石同士が押し合い、多少の隙間があっても締め付けが増し、高い強度の石垣が出来上がる
様々な個性、特徴を持つ一人ひとりの個を組み合わせて強い集団をつくりたいと思ったら、野面石の石垣を頭に浮かべてみる。大きな石だけで頑丈な石垣ができている訳ではなく、小さな石も石垣を支える大きな役割を果たしている。同じように、人には誰しも持ち味があるのだから、それぞれにどういう役割を持たせてやれば、集団をうまく支えられるかを考えればよい。一人ひとりの異なる持ち味(技・知)を見極め、積み方を工夫することによって、異質で多様な個が強い集団をつくるのである。

このように、一見離れていそうな物事でも、考え方ひとつで「繋がり」が生まれてくる。昔の人たちが築いた石垣と今の人たちの日々の生活や職場の仕事が繋がってくるのである。「自然」の叡智と生活・仕事もまた繋がってくる。日々、物事を考える際、この繋がりの大切さに気づくことを忘れないで欲しい。

 

熟 → 考

“熟”という漢字は、「孰(煮炊きする器に人が両手を出す形→“煮る”の意)+灬(火)」からなり、よく煮ることから、すべてものの「うれる」の意、また「なれる、しあがる」の意を表す。“熟”を使った熟語には、熟考、熟成、熟練、円熟、習熟、…がある。

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「熟成」に似た言葉に「発酵」がある。両者の違いは、微生物の関与の有無であり、発酵は微生物の働きで新たな成分を生み出している状態、熟成は自身の酵素で分解を行うことだという。お酒の場合が分かり易い。アルコールを生み出すのが発酵で、それを美味しくするのが熟成である。「考」にも、お酒と同じように、「発酵」と「熟成」が必要である。以下、“熟”と“考”について考えてみる。

「論→考」の項で、思考の整理の方法の一つとして、「①本などを読み情報を集める→②できるだけたくさん書いてみる→③それに吟味、批判を加える→④知識、思考は純化される」というステップがあることを紹介した。
①の本などを読み集めた情報は「考える」ための素材である。ビールをつくるための麦に相当する。ただし、麦だけではビールにならないように、酵素を加えることが必要である。酵素に相当するのがヒントやアイディアである。このヒントやアイディアは元の本にあるのではなく、他の読書、テレビ、新聞や、他人との雑談の中にも潜んでいるかも知れない。これは素材の麦とは異質なところからもってくるのである。
次に、素材と酵素を化学反応した結果を、ステップ②にあるように書き出してみる。最初は発酵度合いが小さいかも知れないが、たくさん書き出すことで化学反応も進行してくる。そして、③の吟味、批判を加えるということは、「自身の酵素」で分解すること、つまり「熟成」することに相当すると考えられる。このようなステップを踏むことで、思考は高められ、純化されていくのである。

以上、よい「思考」には「熟成」させることが重要という話をしてきたが、最初に述べた熟成の定義である「自身の酵素で分解を行う」ことを忘れてはならない。ここでいう酵素とは、自らが持つ「知」に他ならない。そうした「知」を育むためには、周囲の物事に興味を持つことが大事である。自分の城に閉じこもらず、常に子どものようにさまざまな事柄に興味を持つことで、視野が大きく広がっていく。幅広い知性を持つことに越したことはないが、せめて自分の周囲に垣根をつくらないよう心掛ける、そんなところから知が生まれ、豊かになっていく。

最後に、そうは言っても、いくら考えてもわからないということもあるだろう。時には“寝かせる”ことも必要である。しばらく考えることから離れ、頭の中の醸造室で、そっとしておく。ウイスキーは熟成期間が長い方が美味しさも増してくる。これに近しい教えが禅の公案のひとつにある。「狗子仏性」という話である。「犬にも仏性が有るか、それとも無いか」という高僧と弟子との問答である。答えは「有る」か「無い」か、わからない。いくら考えてもわからないのだとしたら、考えることに執着せず、わかるときが来るまで放っておく。無理をして出した答えは、所詮、その程度のものなのだ。今すぐ答えを出さず、寝かせておくという選択も、ときには大切である。

 

次回は、“知”に対する一つのアプローチである“結”、および“結”に繋がる“包”、”緯”、“斜”、“経”、“協”、“連”の6つの要素について話を進めることにする。

 

連載一覧(過去掲載分は、タイトルをクリックしますとページに移ります)

連載にあたって  5月
第1話 漢字マンダラ   5月
第2話 ”変”、“知”、 “理”、“道” 6月
第3話 “革”(および “価”、”蛻”、…) 7月
第4話 “創”(および “夢”、“断”、…) 8月
第5話 “考”(および “観”、”望”、…) 9月
・第6話 “結”(および “包”、”緯”、…) 10月
・第7話 “和”(および “幹”、”芸”、…) 11月
・第8話 “調”(および “静”、”流”、…) 12月
・第9話 “想”(および “真”、”感”、…) 1月
・第10話 “徳”(および “悟”、”軸”、…) 2月
連載を終わるにあたって 3月



筆者プロフィール
常盤 文克(ときわ・ふみかつ)
元花王会長。現在、常盤塾で学ぶ。大事にしている言葉は「“自然”は我が師、我が友なり」(“自然”に学び、自然と共に生きる)。著書に『知と経営』『モノづくりのこころ』『楕円思考で考える経営の哲学』など多数。

丸山 明久(まるやま・あきひさ)
日産自動車技術企画部在籍時に丸の内ブランドフォーラムに参加、常盤塾に出会う。常盤塾・塾生。現在は、常盤塾での学びを果樹農業経営で実践中。

 

 

 

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