【第7話】和 - 美・芸・総・幹・性・循-

漢字マンダラでは、“変”、“知”、“理”、“道”に対して、それぞれに通じる漢字群を配置した(図1)。マンダラの左下部は “理”に繋がる漢字群である。“理”を生み出すには、あるいは“理”に対応するには2つのアプローチがある。一つは“和”であり、もう一つは“調”である。今話では、“和”を実現するのに必要な“美”、“芸”、“総”、“幹”、“性”、“循”という6つの要素(文字)の話をする。

図1. 漢字マンダラ

“和”という漢字は、「禾(軍門に立てる標識の木の形)+口(祝詞を入れる器=サイの形)」からなり、口(サイ)をおいた軍門の前で誓約して講話することを和といい、心を合わせ「やわらぐ、なごむ、合わせる」の意味となる。“和”を使った熟語には、和気、和解、和音、調和、中和、…がある。

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“理”を構成する漢字として、“和”と“調”を選んだ。二つの漢字からなる熟語に「調和」がある。ギリシア語で「harmonia」。この観念を哲学史に導入し、のちのギリシア哲学に大きな影響を与えたのはピタゴラスとヘラクレイトスである。ピタゴラスは、宇宙は調和と秩序が本質であると考え、その原理を数とし,数学的研究を深めた。その後、ヘラクレイトスは生成消滅の過程における対立項 (生と死,冷と熱など) の背後には世界の理法(ロゴス)としての調和があるとみて、それを見抜くことに真の知があるとした。このように紀元前の時代から、万物の本質というべき「理」には「調和」があると考えられてきた。

また、“和”には、「心を合わせ、やわらぐ、なごむ」意味がある。日本人は、調和の中に、単なる物理的な関係性だけでなく、人の温もりといった精神的な意味合いを見出している。鈴木大拙は『禅と日本文化』(岩波新書)の中で次のように述べている。
「調和(harmony)の和は和悦(gentleness of spirit)の和とも読める。思うに、この意味の和こそ茶の湯の行程全体を支配する精神をさらによく表しているようだ。調和は形の方を意味するが、和悦は内的感情を示唆する。総じて茶室の雰囲気はむしろこの種の和を周囲につくりだすことである。―触感の和、香気の和、光線の和、音響の和を。(中略)この環境のすべては、かようにして、それをつくりだした人の人格を反映するのである。」

和には、人と人との繋がりの大切さという意味合いで使われることも多い。第2話において「理」の項の冒頭で、易経(説卦伝)の中の「天地人三才」という言葉に触れた。大自然と一体化した仕組みの中で仕事をしなさいという教えを説いており、「天」とは天の働きであり、大自然の「理」である。この「天地人三才」の思想は、古来より組織論や教育論に結びつき、孟子に「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」が書き残されている。大事を為すには、天地人の三要素が重要だが、最も重要なのは人の「和」だ、という教えである。このように、大自然の「理」の中で仕事をする上では、人の「和」は欠くことのできない関係にある。

さらに、仏教に「衆縁和合」という言葉がある。すべてのものは単独では存在し得ない、ものごとは様々な縁と縁が重なり合って生まれ、そしてまた重なり合って消えていく。そういう関係性、相互依存性のなかに、ものごとの本質があるという教えである。
人の「和」という意味には、単に人という個と個との結びつきだけを意味しているのではない。個と全体が相互に作用し合いながら個が育ち、その個が集団を育てていくという姿が「和」である。個と集団は一体不可分のものである。個は集団の中にあってこそ個としての意味を持ち、集団は個があってこそ成立することが、ものごとの「理」なのであるから。

 

美 → 和

“美”という漢字は、「羊(立派なひつじ)+大(おおきい)」からなり、成熟した羊の美しさから「うつくしい」という意を表す。“美”を使った熟語には、美貌、美徳、美味、賛美、優美、…がある。

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“和”(調和)には、何かしら“美”を感じる。その関係を数学的にあらわしたものの一つに黄金比(縦aと横bの比がa:b=b:(a+b)の関係にあり、おおよそ1 : 1.618‥)がある。古くから伝わる調和的で美しいと言われてきた比率で、安定感があり、美しく感じると言われている。黄金比は人間が考え出したものではなく、自然を観察することで得られた法則である。つまり、自然が奏でる調和こそが美の根源ということなのであろう。

また人間が創り出す美として芸術がある。芸術の世界では、調和により美を表現しようとする試みがなされている。ここでは、調和と美の関係性について、「対」になっているものが対立するのではなく、調和の取れた状態を保つことで美を生み出す事例をあげてみる。
まず水墨画の世界である。水墨画は、白い紙に黒い墨だけで描いている。墨で描くことができるのは白い紙があるからで、墨の黒に紙の白という対極があってこそ絵が成立する。そして、色も真っ黒と真っ白だけではなく、筆の使い方を工夫し、白黒の濃淡をつけたり、ぼかしたり様々な表現で絵を描き上げる。つまり、白い紙と黒い墨、この二つの極を上手に活かしながら、両者を調和させることで美しい表現を実現しているのである。
次に、バロック音楽である。バロックは「歪んだ真珠」が原義で、ルネサンス期の円的な均整のとれた美から逸脱した芸術を意味していた。光と影、音の強弱といった対となるものを対比する中で全体の均衡をはかることで、楕円的な躍動感のある芸術を求めたのである。バロック音楽では、通奏低音と呼ばれる低音部が地上の調べを、高音部は神々しい天上の旋律を奏でる。天上と地上の対話で構成されるバロック音楽は、双方がときには対立し、ときには融合して美しいハーモニー(調和)を紡ぎ出すのである。

このように、芸術の世界では、自然が奏でる調和が美を生み出すことに基づき、美と調和を考えてきた。さらに、そうした調和のとれた自然と人が互いに通じる中で、“美”は感じられるのである。日本の民芸運動の創始者・柳宗悦は、実用的な工芸雑器の中に、日常的に使用されているからこそ、美しい光を放つ「用の美」を見出している。
宗悦は言う。「人間は完全なものでないから、人間の自由に任せると過ちを犯しがちである。一方、自然は法則の世界であるから誤りに落ちることがない。実用的な品物に美しさが見られるのは、背後にかかる法則が働いているからである。これを他力の美しさと呼んでもよいであろう。他力というのは人間を超えた力を指す。自然だとか伝統だとか理法だとか呼ぶものは、他力であり、これに従うことが美を生む大きな原因となる。」
この発想はとても東洋思想的である。マーケティングで集められた「顧客の嗜好」ではなく、他力によって体全体で感じた深い「質」を追求した製品にこそ美しさはあらわれる。使ってみると「よく手になじむ」とか、自分の部屋に置くと「しっくりくる」とかいう感覚が生まれるモノに、人は「用の美」を見出すのである。美を生む元となる「他力に従う」ということは、すなわち自然とか宇宙が奏でる調和を掬うことに他ならないと思えて仕方がない。

 

芸 → 和

“芸”の旧字は“藝”。「艹(くさ)+埶(草木を植え育てる)+云(雑草を取り除く)」からなり、草木を植え育てる→園芸→「身につけたわざ」の意となる。“芸”を使った熟語には、芸術、芸当、芸能、技芸、園芸、…がある。

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“芸”という漢字は、上述の通り、「身につけたわざ」を意味するので、しばしば職人技のことを職人芸と言うこともある。ここでは、日本を代表する工芸品が、職人“芸”(技)の“和”で成り立っていることを話したい。

どの分野のモノづくりでも、一人でできることはほとんどない。高度な工業製品になればなおさらである。いいモノづくりにおいては、その道を究めた様々な職人が使い手のために、妥協することなく協働して、モノをつくり上げたとき、「本物」が生まれる。そこでは全員が材料や道具に拘り、その分野での最高の技術を有すると同時に、最終的に出来上がったモノの姿がイメージできていなければいけない。
複数の工程からなるモノづくりで、この全工程が全体として一つの「統体」になる、すなわち、その道を究めた職人芸の「和」の極致であり、日本のモノづくりが最も得意とするところである。たとえば、浮世絵、友禅、漆芸、陶芸などで、日本の美術・工芸品は伝統的に複数の工程のそれぞれを受け持つ専門職人たちの「腕」で支えられている。個々の部門の専門家は、多くの場合、前後の工程の経験があり、その個別の領域に閉じこもることなく、常に完成されたときの美しさや使い手の心地よさを視野に入れながら仕事が行われているのである。

例えば、浮世絵の制作には、原画を描く「絵師」(浮世絵師)、原版を彫る「彫師」、印刷する「摺師」といった職人達が分業している。浮世絵の作者と言えば、葛飾北斎とか歌川広重といった絵師の名前が挙げられる。しかし、その裏では、彫師は絵師の描く髪の毛の線よりもさらに細かく線を彫るとか、摺師は版木の上に絵の具をのせるとき、水分量を調節することでグラデーションの層をつくりあげるといった、それぞれの職人芸の「和」が集積して、1枚の浮世絵が出来上がるのである。
また漆芸では、漆の採取から始まり、漆器に仕上がるまでの工程が細分化され、それぞれの専門の職人により分業化されている。漆器の作成は、大きく分けて4工程がある。まず原型になる木器をつくる木地作りの工程。次に、その原型を補強し、より美しく機能的にするためのたたき台をつくる下地作りの工程。本格的に漆を塗り重ねる塗りの工程。そして最後に絵柄や彩色を施すことで美しく作品を仕上げる加飾の工程がある。それぞれの工程を、高度な技術を持った専門の職人が役割を担っている。
現在の工業製品のモノづくりの現場においても、モノづくりでは全工程が全体として一つの統体であることを意識させている。例えば、設計部門で採用された社員も、必ず生産現場の経験をさせたり、工場と顧客の距離を縮めるために、人材育成の立場から生産部門の社員に営業の仕事を経験させたりする企業は少なくない。そうすることにより、生産を考えた設計につながり、生産工程での品質向上の意識が高まるのである。

「芸」は、草木を植え育てることが原義であるように、仕事とは、モノやサービスを育てる「芸」に他ならない。そして、モノやサービスは、それに関わる人たちの「芸」の「和」であることを忘れず、自分の仕事の先にある姿を見る心を持って、仕事に取り組みことを忘れてはならない。

 

総 → 和

“総”の旧字は“總”。「糸(いと)+悤(ひとつにまとめる)」からなり、束ねた糸を表し、ひいては「まとめる、すべる(総べる)」意を表す。“総”を使った熟語には、総括、総合、総領、総意、総務、…がある。

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この項では、企業の「総合力」というのは、構成する要素の単なる足し算としての和ではなく、バランスを含んだ「調和」している状態だということを話したい。

企業の総合力を示す指標として、「ブランド」が挙げられる。顧客にとっての信頼と安心を与えてくれる価値の印である。そして、ブランドには研究開発、生産、マーケティング、販売をはじめ、企業のあらゆる部門の機能、能力、知恵、技術が凝縮されている。また広く企業理念、企業文化が反映されたものでもある。
さらに、ブランドと顧客との接点である商品やサービスの優劣とは、技術や品質、価格、コスト、スピード、顧客密着といった要素の総合力である。加えて、その中の品質についても、機能や性能といった技術面だけでなく、美しさ、使いやすさ、安心・安全といった感性の側面も重要で、両者が融合された統体であると言える。

それでは、ブランドを強くするためには、それを機能に分解して、弱い部分をテコ入れすればよいのであろうか。こうした手法は、まさに西洋の要素還元的な思考によるものであり、西洋医学に見られる局所的、解析的な対症療法そのものである。しかし、どの企業もそうした努力を続けているにも関わらず、なかなか思うようにブランドを強くできないのが現状であろう。そこで、思考方法を変えて、東洋医学を参考にしてみるのはどうだろうか。

東洋の伝統医学では、生命を肉体、感覚、精神、魂の統体(有機的な総合体)として捉え、健康とは身体的、精神的に「調和」のとれた幸福であると定義している。そして、病気を統体の乱れとみなし、生体のバランスの回復を治療の基本においている。
これをブランドに置き換えてみると、強いブランドとは、それを構成する要素が調和され、バランスがとれた状態といえる。ブランドを強くするためには、個々の要素をどうこうするというよりも、要素全体のバランスを見直すことが必要となる。ここで調和とかバランスという言葉は概念的なので、東洋医学の代表である漢方を例にして企業活動の対応について考えてみる。

漢方には、人体は「気・血・水」の三つから成るという独特の考え方がある。「気」とは、生命の源、生命のエネルギーといったものである。「血」とは、血液だけでなく、体の中を巡って臓器に栄養を与える物質を指す。「水」は、水分という意味のほかに、リンパ液のような生命活動を支える体液である。そして、この気・血・水が望ましい状態で一体になっているときが、元気で健康な状態ということである。
それでは、気・血・水のそれぞれは、企業で言えば何に当たるだろうか。「気」は企業の活力とか社員一人ひとりの「やる気」と言える。「血」は企業の栄養分、活性成分、資源、つまりヒト・モノ・カネといったものと考えられる。「水」は企業活動を支える組織とか風土に当たる。

大切なのは、この三者(気・血・水)を調和させること、つまりバランスを常に高いレベルで保つように、環境を整えることである。そして、三者に共通して関わるのは社員、すなわち人である。企業の総合力を高めることは、社員の質を高めることに他ならない。教育の機会をつくり、それぞれの能力を活かす仕事を与え、成果を正当に評価する仕組みをつくる。このようにして企業の土壌を肥沃なものにしていくことが、急がば回れで、企業の総合力を高めることにつながっていくのである。

 

幹 → 和

“幹”という漢字は、「倝(飾り物のある旗竿の形)+木(→干に変化)」からなり、旗竿は旗の柱で、基本をなすものであるから「はしら、みき」という意を表す。“幹”を使った熟語には、幹線、幹部、幹才、基幹、根幹、…がある。

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“幹”と“和”を考えたとき、思い出すのが2010年にチリ鉱山で起きた落盤事故での救出劇である。地下634mの坑道に33人の作業員が閉じ込められたが、69日後に全員が奇跡の生還を果たした。この立役者は、閉じ込められた作業員のリーダーとされるルイス・ウルスアさんで、彼は救出を信じて仲間を強いリーダーシップで束ね、パニック状態になった仲間を激励し、ルールを決めて統率を取り、結果として全員が生還できた。まさにリーダーという「幹」が、集団の「和」を生み出すことで生きながらえたのである。

このウルスアさんの行動から、私たちは学ぶべきことがたくさんある。集団の幹であるリーダーはどうあるべきか、リーダーシップとは何かを改めて教えてくれた。
人間は極限状態に置かれるとパニック状態に陥り、統率する者がいない組織は、常にいさかいと背中合わせとなる。それを避けるため、自ら率先して行動を起こし、全員に安心感と秩序をもたらしたのである。事故発生後、仲間を一カ所に集めて構内の落盤状況を把握し、救出が難しいと判断すると、残っている食料を確認し、配給のルールを決めた。さらに、全員を3つの班に分けて役割を分担するとともに、一日を仕事の時間と自由時間、休養時間、睡眠時間に3等分した。そして、それぞれの班長に統率させ、決めた規律はしっかりと保たれた。
ここで、ウルスアさんは鉱山の現場監督の立場ではあったものの、誰かが彼をリーダーに任命した訳ではなかった。彼は勇気をもって自ら行動し、それに全員がついていき、結果としてリーダーになったのである。まず状況を把握し、自らを犠牲にしても仲間のために行動し、人が嫌がる仕事も買って出る。一方、その成果はみんなで分かち合う。結果として、この人についていけば自分は必ず助かる、自分たちのことを第一に考えてくれている、という信頼感が生まれてくる。そして、仲間同士を思いやる気持ちや連帯感、協働の精神の醸成につながるのである。こうした心構えこそ、リーダーとして、仲間を率いる重要な要件である。

このように、集団の「和」の要となる「幹」(リーダー)の役割は大きい。かつて高度成長期の日本のモノづくりを支えた現場には、どこにも「棒心」と呼ばれる親方がいた。棒心とは、製造現場の組長や工程の班長に相当する役割の人だが、自分の職務はここからここまでと線を引かず、部下たちのいろいろな相談に乗りながら、仕事を通して人を育てる親分肌のリーダーのことである。
棒心は、自分たちの仕事に誇りを持ち、仕事では絶対に手を抜かない。手抜きや事故を恥だと考え、作業の手順など現場の工程の隅々まで目を光らせていた。時には仕事を離れて、部下の生活や家族の悩みなどについても、相談に乗る。仕事と家庭での生活が深くかかわっていることを知っていたのである。さらに、自分の仕事を部下に見せながら、人を育てる役も担っていた。つまり、職場仲間のリーダーであり、「技」や「知」の伝承役でもあった。

棒心の存在があってこそ職場に一体感が生まれ、秩序が生まれ、互いに助け合い学び合いながら技術を磨く仕組みが生まれてきた。そうした棒心も業務役割の明確化、職人のサラリーマン化といった職場の風土の変化ともに、今ではすっかり姿を消してしまった。その影響は、さまざまな業界で起きている品質保証の偽装事件や、製品の不具合によるクレーム事件にあらわれている気がしてならない。集団の「和」には「幹」の存在が不可欠であるからには、かつての棒心に代わる「棒心のこころ」を組み込んだリーダーを育てるような仕組みを、それぞれの企業の事情に合わせて考えるべきであろう。

 

性 → 和

“性”という漢字は、「忄(こころ)+生(うまれつき)」からなり、人に生まれながら備わっている心から「さが、うまれつき、ものごとの本質」の意を表す。“性”を使った熟語には、性格、性能、本性、相性、理性、…がある。

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人は、集団を求め、集団なくしては生存することができない。これは、人という生き物の「本性」の一つである。日本人はよく集団主義的であるといわれるが、個人の自由を誇る欧米人もEUやNATOといった経済や安全に関する集団体制を採り入れている。また、現代では、何らかの理由で集団生活に破れて孤立し、「心」の病を持って「生」きている人の何と多いことか。そうした状況を見ても、人の本性は集団で生きることだと実感できる。
それでは、人の本性である集団で生きる上で大切なものは何であろうか。それが「和」なのであろう。ここでいう和とは、集団の持つ一体感、温もり、信頼感、さらには個人を超えて協力・協働する意識の強さといったものである。そのためには、心の通う仲間同士のコミュニケーションが必要である。互いに顔をつきあわせて、深い対話をすること。夢を語り合うこと。労苦や喜びを分かちあうこと。そんな人の温もりのあるコミュニケーションの原点に戻ることで、「和」というものは育まれていくのではないだろうか。

しかし、そうは言うものの、人には必ず「相性」のよしあし、ウマが合う、反りが合わないがある。相性が合わない同志では、いくらコミュニケーションが大事だといっても、成立しないこともある。そこで、そうした人と人との相性を考えながら、集団の和をはかる上で参考になるのが、中国の「五行」思想である。森羅万象は、五つの「行」(木・火・土・金・水)のいずれかの属性を有しており、これらの行の間には「相生」(互いに助け合う)と「相剋」(互いにぶつかり合う)の関係があると説いたものである(図2)。ここで、「行」とは、われわれの生存を成立させる潜在的な形成力である。
 

図2.五行(相生・相剋)

五つの行には、それぞれ特性がある。「木」は草木が育つように広がる性質、「火」は炎のように盛んな性質、「土」は物事を育む豊かな性質、「金」は堅いものが変化する性質、「水」は冷たく流れる性質である。そして、五つの行は、相生と相剋で相互に関わり合いながら存在している。
例えば木と火の組み合わせは、木が燃えて火を生み出すので相性がいいとされる。火と土も、火が草原を焼き払って肥沃な土地にするので、よい組み合わせである。一方、火と水は互いに打ち消し合い、木と土では木が土の養分を吸い取り土地が痩せるので、相性が悪いとされる。五つの行のどれをとっても、あるものとは助け合うが、あるものとはぶつかり合う、という相生・相剋の関係にある。

人と人との関係においても、この組み合わせによっては集団の和にプラスにもなればマイナスにもなる。集団の和をはかる時、人の組み合わせを考えねばならない。ここで大事なことは、相生には相性の良さ、相剋には相手を制御するという意味合いがある。集団の和をはかる上では、個々の相生と相剋を見ながら、集団として調和がとれた状態になるよう、両者(相性の良し悪し)のバランスを見ながら組み合わせていくことが大切である。

 

循 → 和

“循”という漢字は、「彳(ゆく)+盾(たて)」からなり、軍隊が盾を持って行進することから、人心を安んじる、人々が従う意となり、「したがう、めぐる」という意味となる。“循”を使った熟語には、循守、循環、循行、撫循、因循、…がある。

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『論語』に「四時行われ、百物生ず」という言葉がある。四時とは春夏秋冬のこと、百物とは万物(天地間のすべてのもの)のことである。草や木は、春には花を咲かせ、夏は枝を伸ばし葉を茂らせる。秋には実をつけ、冬には葉を落としてひと休みする。そして次の春が近づくと、新しい雷みを膨らませ、開花の準備をする。春夏秋冬の「循り(めぐり)」のなかで万物が生まれ、消えていく。その変化と循環こそが自然の「調和」であり、ものごとの本質だと言っている。

自然の調和が、変化と循環から成り立っていることは、生態学的に見た方がピンとくるかも知れない。植物はエネルギーを生み出す「生産者」、動物はそれを食べる「消費者」、そして土壌動物や微生物は動物の出す糞や死骸、落葉や落枝といった有機物を分解する「分解者」と呼ばれている。そして植物の生育に必要な栄養が、植物と土壌とのあいだで「循る」ようになり、また新たなエネルギーを生み出す。このように「生産者」と「消費者」と「分解者」により、自然界のあらゆる生物はエネルギーを循環させて生きているのである。

このように、自然の調和は循環から成り立っているが、前項で触れた五行思想は、万物は五行によって変化し、それが交替・循環していくという考えである。五行である「木・火・土・金・水」を円状に描くと、隣り合う行は助け合う、強め合う「相生」の関係にある。逆に一つおきの行は、牽制し合う、反発し合う「相剋」の関係になっている。五つの行は互いに結びついて円環を成しているが、その中では始点も終点もなく絶えず生成と消滅を繰り返し、その動きの中で相生と相剋の調和が保たれている(図2)。
五行思想では個と全体は一体で、個と個が有機的に結びついて全体を成し、一つの生きたシステムとなる。システムの中で互いに個は関係し合い、循環し続けることで、全体の調和がはかられるのである。

この五行思想が説く循環の考え方を、企業という組織にあてはめてみる。人という個と個が互いに助け合い、ぶつかり合うことで変化が起き、その変化が繰り返されていく。その循環を通して集団の調和が保たれ、集団の知はより高い次元へと質を高めていく。そして高みに上った分だけ、その集団は、よき製品・サービスをつくり出すことができる。これが、企業が成長するということである。
同時に、個である人も集団の中で成長を続け、一人ひとりに自分なりの個性が育つ。そしてこの個性が、今度は集団を変えていく力となる。つまり、個は集団から学び、さらに集団は個に育てられてより強い集団へと成長していくという、大きな循環が生まれるのである。
ここで、こうした循環を自然発生的に起こすには、個を育てることが必要である。しかし、教育、つまり上が下を「教えて育てる」という一方向的発想では限界がある。上下の関係なく共に育つという意味の「共育」という円環的、循環的考え方こそが、重要な意味を持つのである。互いに教え、学び合い、共に育ち、成長していくという考え方が大切なのである。

 

 

連載一覧(過去掲載分は、タイトルをクリックしますとページに移ります)

連載にあたって  5月
第1話 漢字マンダラ   5月
第2話 ”変”、“知”、 “理”、“道” 6月
第3話 “革”(および “価”、”蛻”、…) 7月
第4話 “創”(および “夢”、“断”、…) 8月
第5話 “考”(および “観”、”望”、…) 9月
・第6話 “結”(および “包”、”緯”、…) 10月
・第7話 “和”(および “幹”、”芸”、…) 11月
・第8話 “調”(および “静”、”流”、…) 12月
・第9話 “想”(および “真”、”感”、…) 1月
・第10話 “徳”(および “悟”、”軸”、…) 2月
連載を終わるにあたって 3月



筆者プロフィール
常盤 文克(ときわ・ふみかつ)
元花王会長。現在、常盤塾で学ぶ。大事にしている言葉は「“自然”は我が師、我が友なり」(“自然”に学び、自然と共に生きる)。著書に『知と経営』『モノづくりのこころ』『楕円思考で考える経営の哲学』など多数。

丸山 明久(まるやま・あきひさ)
日産自動車技術企画部在籍時に丸の内ブランドフォーラムに参加、常盤塾に出会う。常盤塾・塾生。現在は、常盤塾での学びを果樹農業経営で実践中。

 

 

 

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