図1. 漢字マンダラ
想
漢字の“想”は、「相(生い茂った木の姿を見る→自分と向き合う存在=相手)+心(こころ)」からなり、乞い願う気持ちから、「おもう、かんがえる」の意となる。“想”を使った熟語には、想像、想起、思想、空想、理想、…がある。
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まず、“道”について考えてみたい。第2話「道」の項で述べたように、道という漢字は、単に「人が通るための処」の意味を超えて、「人が守るべき教え・やり方・生き方」という精神的な概念(事物の本質をとらえる思考の形式)を表わす言葉である。老子の説いた「道」とは、万物を生み、成長させる根源であり、“自然”より授かった生きるべき正しい道とでもいうべきものである。そして、日本では茶道、華道などの芸ごとの専門分野、および武士道、職人道、商人道といった職業倫理における精神文化の意味として用いられてきた。
また、老子の説いた「道」とは、東洋哲学の「思想」であり、日本における「道」には、その道の達人を目指して努力し、精進する上での「徳」が求められる。本話では、まず“想”についての話から始める。
ここで、「思想」の「思」も「想」も訓読みは「おもう」であるが、「思い」は頭の中で考えているもの、「想い」は心の中で描く精神的なイメージという違いがある。老子の思想である「道」は、論理的に導き出されるものではなく、道を追求する過程で生まれてくる概念であることを考えると、同じ「おもう」であるが、「道」を追求する漢字には「想」の漢字を用いることにした。
さて、現代のように環境変化の激しい社会の中で、私たち企業はどのような組織で仕事に取り組んだらよいのだろうか。すぐれた組織には、三つの「想」が求められる。高い「理想」、新しい「発想」、夢のあるコトづくり(夢に向かって協働する仕掛けや仕組み)の「構想」である。企業は、確固たる理念のもとで、高い「理想」を掲げ、常に新しい「発想」を持って、コトづくりを「構想」する。企業は、こうして実現できたモノやサービスを顧客に届ける。その結果、顧客はモノに喜び、社員は仕事に喜び、そしてこの喜びを両者で共有する。この仕組みがしっかりとできあがっている組織が、「よい組織」なのである。
ここで、コトづくりについて、もう少し詳しく話しておきたい。人はカネや地位よりも自分の内部から湧き出るエネルギーを感じるとき、やる気が高まり、仕事にやりがい、生きがいを感じる。それには一人ひとりの持つ潜在的なエネルギーをいかに引き出し、集団の力とするか、この集団の活力を飛躍的に引き上げていく仕掛けや仕組みが必要である。このマネジメントが「コトづくり」なのである。
「コト」とは夢や想い、望み、そしてそれを実現する仕組み、仕掛けが入っている箱と思えばよい。この箱のなかで、社員のみんなが自分の夢や想いと仕事とを重ね合わせて、存分に仕事に取り組み、充実した日々を送ることができる。コトづくりとは、夢に向かって協働するこの箱を創ることである。そのためにリーダーがやるべき大事なことは、「きらめく旗」を掲げること、すなわち大きな夢や熱い想いを誰にでもわかりやすい言葉で呼びかけることである。
兆 → 想
漢字の“兆”は、「占いでの亀甲のひび割れの形」を表し、占いで出る兆しから、「きざし、きざす」の意となる。“兆”を使った熟語には、兆候、兆民、予兆、吉兆、占兆、…がある。
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第2話「変」の項で、ものごとの本質は「変化」であり、変化と共に生きるためには、変化の「兆し」を感じ取ることが大切だと述べた。これは、古代中国の書『易経』の教えであり、易経には「時と変化の兆し」の読み方が書かれている。
では、どうして易経は変化の兆しを読めるとしているのか、そのもとは「時」の概念にある。変化は時の流れとともに起きている。また時の流れは循環しているので、変化も循環し、永遠に止むことがないと考えるのである。時の流れと変化が並行して循環するという関係性は、四季の移り変わりと同じである。草木が春に芽吹き、夏に生い茂り、秋に実る、そして冬には一休みして次の春に備える。このように、時の移り変りとともに、物事の変化も規則性をもって繰り返される。世の中のあらゆる変化が、このような循環のもとにあるなら、次に起こる事象は予測できるはず、というのが易経の考え方である。
易経はまた、変化は突然起きるのではないという。いま、起きている出来事の陰には、すでに次の事象の芽生えが潜在している、つまり「兆し」があると教えている。兆しはものごとを注意深く観察すれば察知できるものであり、兆しを読むために特別な技術が必要なわけではない。循環することが時の本質であることを知る人にとっては、兆しを読むのは決して難しいことではないのだという。
大自然の動植物たちは、この兆しを感じ取る能力にすぐれている。例えば、蜂の巣が高い所に作られる年は台風が多い、秋にカメムシが多く家の中に入ってくる年は雪が多い、カマキリの卵嚢が高い所に産み付けられる年は大雪になる、といった動物がその年の天候を予知する言い伝えがある。自然の兆しを察知する何かしらのセンサーを持っているのであろう。
それでは人間はどうすればよいであろうか。第2話「変」の項で述べたことの繰り返しになるが、小さな変化に気づくには、好奇心や探求心が欠かせない。また、無心、素直さを持って“自然”に接することも大切である。自然のなかに身を置き、没入し、素直に自然の語りかけるものに耳を傾ける。そうすれば、五感が研ぎ澄まされ、変化の兆し、そして小さな変化が見えてくるのである。
一つの例が二宮尊徳の逸話にある。「初夏のナスの味が秋ナスの味だったことで凶作を予知し、冷害に強いヒエを撒くことで、天保の大飢饉を乗り越えた」という話である。初夏にナスを食べたところ、秋ナスの味を感じるというのは、まさに小さな変化に気づく能力である。さらに、探求心からナス以外の稲や道端の草の状況も調べ、どの植物も葉先が衰えていることを把握した。そうした状況に、陰陽の知識を当てはめ、その年の天候は「陰の気」なので米が実らないと判断することができたのである。
ここで、忘れてはならないのは、尊徳には、貧困と飢餓から民衆を救いたいという強い「想い」があったことである。初夏での秋ナスの味という小さな変化が、凶作という大きな変化につながる「兆し」であるということを、いち早く感知、認識できたのは、想いがあったからこそである。実際、尊徳は、50年前の天明の大飢饉を調べ、冷害の数年前からヒエの作付けを準備させていたそうである。信念ともいえる「想い」を持ち、そのための準備を怠らず、素直に自然と接する。これからの世の中の「兆し」を読めるようになるためにも、二宮尊徳の生き方を見習いたい。
真 → 想
“真”という漢字の旧字は“眞”である。「匕(さじ=匙)+鼎(かなえ=煮炊きの器)」からなり、匙で鼎の中身をすくう形を表す。鼎のなかに中身がいっぱいに詰まっていることから「ほんもの、まこと」の意となる。“真”を使った熟語には、真理、真実、真正、純真、天真、…がある。
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「不立文字(ふりゅうもんじ)」1)という禅語がある。訓読すると「文字を立てず」となり、「本当に伝えたいことは決して文字では表せず、教えるべきものは言葉の外にある」ことを意味している。「悟りの境地は、文字や言葉にして伝えられるものではなく、修行を積んで、心から心へと伝わるものである」という禅の教義である。
このことは、禅に限らず、われわれの日常生活においても同じことが言える。修行を体験と読みかえると、「真の教え」とは、文字や言葉だけでは伝わらない。そして、教える側がすべて教えるというものではなく、教わる側の受け止め方も大切である。教わったことを自ら体験することで、教わったことの本質を見つけ出すことができるのである。さらに、いい教え方というのは、受け取る側が「想像」できる余白を残しておくことでもある。
そして、現代では、この禅語の「文字」を「デジタル」と置き換えて考えてみるのはどうだろうか。もともとデジタルはアナログに対して、情報を離散化させたものであり、必ずしも真実ではないのだが、そのことをつい忘れがちである。
DX(デジタルトランスフォーメーション)が叫ばれる昨今では、業務の「見える化」が欠かせないと言われている。意思決定や作業の過程を文字や数字などの目に見える形で示し、どれだけ効率よく成果が出ているのかを数値をもとに検証し、改善していこうというものである。既に20年以上も前からトヨタ生産方式で重要な役割を果たす概念として知られ、当初は製造業では多く使われていたが、現在ではさまざまな企業で用いられている。
この見える化を実行していくには、業務に関わる様々な要素を視覚化・数値化して、具体的なデジタル情報に変えていく作業が必要である。ただこの時、やみくもにデジタル化を進めてしまうと、数値化できない要素が削ぎ落とされ、実体とは違った形のものになりがちである。つまり、デジタル化の過程で「省略と変形」が起きてしまう。
そして、最大の問題は、こうした省略と変形の過程で、「真実」(実体)が見失われてしまうことである。無理に見える化をするために、数値化できずに削ぎ落とされた部分にこそ、物事の真実(本質)が隠されているかもしれない。それを見逃してしまったら、可視化も数値化も意味を失ってしまうのである。
例えば、人事評価であるが、態度・能力・成績等を細分化された項目に沿って機械的に評価をしていても、仕事への情熱や思いといった面は評価に反映されない。そうした人の心の部分に目を向けずに、見える部分だけをデジタル化しても正当な評価はできない。人事評価にあたっては、仕事への熱意と一所懸命さを見逃してはならない。
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1) 『心をととのえるスヌーピー 悩みが消えていく禅の言葉』(光文社)
情 → 想
漢字の“情”は、「忄(こころ)+青(あお→まじりけのない)」からなり、人間の生まれながらの心を表し、「(ありのままの)こころ、きもち」の意となる。“情”を使った熟語には、情熱、情報、愛情、感情、事情、…がある。
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“情”という漢字を、本話で扱う他の漢字とつなげて熟語にすると、感情、愛情、温情、真情などが浮かんでくる。これらの言葉における情は、原義である「人のこころ」の意味として用いられている。また、情を用いた熟語で、現在もっとも多く使われている熟語は「情報」ではないだろうか。こちらは、心の面ではなく、原義から転じて使われるようになった「ありのまま」の意味で用いられているが、ここでは、「人のこころ」の面から「想」と「情」の関係について述べてみたい。
「情」の大切さについては、第2話「知」の項でも触れた。簡単に振り返ると、以下の通りである。知を語るときは「理」だけではなく、人の「情」の要素を忘れてはならない。知を「人」や「情」と切り離し、数値や理論、法則といった「理」の部分だけで議論すると、人の温もりや想い、愛情がやせ細って、人間味が抜け落ちてしまう。知を育てていくには、理と情の両面を考えねばならない。知をより大きなものにしていくためには、理という縦串に、情という横串を差すことが必要なのである。
これは、知を育てることだけでなく、人の育成についても同じことが言える。人は心と体を持つ生き物である。論理的、理性的な面がある一方で、情緒的、情動的な側面も持っている。理屈ですべてを理解し行動するのではなく、動物的な勘や感覚を働かせることも大切である。こういう多面性を持つ人に対して、育成を念頭に置いて理路整然と、マニュアル的に育成しようとしても効果は限られる。人は、人と人との温もりのある「情」の関係性の中でこそ育つのである。
また、人の育成とは人が成長することを目的としている。人の育成を考えるとき、どう成長「させるか」と考える前に、自分だったら、どう成長「するか」を考えるのはどうだろう。
仕事を通して成長したという経験は誰にでもあると思う。人の成長には、よい仕事を与えることが重要な要素である。よい仕事とは「情熱」を持って取り組めるような仕事である。やりたくない、面白くないと思うような仕事しか与えられなければ、人は育たない。難しそうだけれど挑戦してみたいと思える仕事に出会うことで人は大きく成長するものである。
加えて、よいリーダーの下で働くことも、人の成長には欠かせない。そうした経験を持つ人も少なくないのではないだろうか。ここで、よいリーダーの条件とは、リーダー自身が仕事への大きな「想い」(夢やロマン)を持っていることである。「オレ、今の仕事をこんな風に変えたいから、君、ちょっと手伝ってくれよ」「この夢を実現したいから、一緒にやってくれないか」と巻き込んでいく。そこで部下が「そうか、それならちょっとやってみよう」「面白そうだからぜひやりたい」と思えばしめたものだ。人は自分からやろうという気持ち、挑戦しようという意欲が湧いてくれば、自分の頭で考えて自分で仕事をするようになる。
そして、企業としては、人だけではなく集団を成長させていかなければならない。集団とは、もともと人で構成されているものであるから、人の成長と同じプロセスで考えてやるのがよい。集団のリーダーは仕事に対する自らの「想い」を掲げる。こんなことをやろうよ、こんな集団になろうよ、みんなで力を合わせて頑張ろうよ、と心の温もりや愛情といった「情」を持って集団と向き合う-ここが要(かなめ)である。この「情」が仕事に取り組む集団の「情熱」に変換され、その総和から企業のパワーが生まれるのである。
温 → 想
“温”という漢字の旧字は“溫”である。「氵(水)+?(皿の上の器の中で、ものの熱気がみちている)」からなり、器の中の物が熱気で動いていることを示し、「あたたかい」の意となる。“温”を使った熟語には、温暖、温厚、温故、気温、保温、…がある。
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シリコンバレーで行われた講習会のエピソードである。ベンチャーを志している受講者のひとりが、「どうすれば自分のアイディアでお金儲けができますか」と、講師に質問した。ところが、魔法の杖を手にできると期待していた受講者には、予想外の答えが返ってきた。講師の答えは、「まず先にお金ありきという発想でベンチャーを始めても、うまくいかないでしょう。価値もお金も、人と人との『温もり』のなかから生まれてくるものです。お金のことより、まず人のことを考えなさい。ベンチャー・ビジネスとはそういうものです」。そのとき、会場から一斉に拍手が湧き起こったそうである。
このエピソードは、株主優先主義の米国ですら、実際に企業を成功させるためには、人と人との「温もり」のある関係がなければ始まらないことを教えてくれる。しかし、企業が大きくなるに従い、「カネを中心におく経営」に舵を切り、「人を中心におく温もりのある経営」から外れてしまう?というのが実情なのであろう。
これは、日本も他人事ではない。「企業は人なり」の言葉があるように、日本では、企業とは人があって初めて成立するものと言われてきた。しかし、コスト・効率・スピード重視の経営になり、企業と社員の家族主義的な関係性は次第に希薄になっている。その結果、人と人との繋がり、結びつきは弱まり、コミュニティとしての温もりを感じられない職場が増えているのではないだろうか。
こうして経営における人の大切さが軽んじられ、「カネを中心におく経営」が蔓延ってしまっている。カネは本来、非常に気短な存在である。カネに執着する限り経営は近視眼的になり、短期的な利益ばかりを追い求めることになる。こうしたカネ偏重の経営の “副作用”を避けるには、デジタルな数値目標ばかりでなく、もう少しアナログで「人を中心におく温もりのある経営」指標に目を向けるべきではないか。
例えば、モノやサービスを創り出す喜び、仲間とともに切磋琢磨して働く喜び、仕事を通して味わう生き甲斐などがそれにあたる。人や心といったアナログな指標は、カネとは違って、もっと気長なものである。また、企業・組織ごとに、指標の物差しは違うものになるかも知れない。誰かが教えてくれるのではなく、もっと自分たちで考え、探し出し、行動して欲しい。
ここで、「温」と「想」の関係性について話しておきたい。企業とは、ある意味、社員一人ひとりが持つ「想像」を、社員全員で「創造」に変換する組織と言えるのではないか。第4話「創」の項で述べたように、発明・発見のもととなる閃きは、人と人、グールプとグループの交流により生まれるものである。自分の想いを他人に聞いてもらう、他人の想いに真摯に耳を傾ける、そうした環境の下で、よい「発想」は生まれるのである。
そのためには、社員同士の仲間意識が溢れているような場でなければならない。人と人との心理的な距離感がなく、隣接感、近親感が色濃く漂っているような場であり、集団の中で価値観が共有され、みんなが運命共同体のように感じて働いているような土壌である。つまり、このような人の「温もり」のある組織のなかで、よい「発想」が生まれ、創造から革新へとつながっていくのである。
感 → 想
漢字の“感”は、「咸:戉(まさかり)で口(祝詞を入れた器)を守る形+心(こころ)」からなり、神は夜中にひそかに訪れ、祈りに応えてくれると考えられたことから、「(神の)心が動く」意を表す。“感”を使った熟語には、感動、感性、感染、共感、直感、…がある。
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“感”(感動)は、“想”(想い)から生まれる。ある通販会社の創業者は、そのことの大切さを常に持ち続けるよう、社員に向けて次の言葉をかけていたという。「夢を持ちなさい、夢を想いに変えなさい、想いを言葉にし、その言葉を実践してお客様に感動を届けなさい、そしてその感動をお客様と仲間で共有できて初めていい仕事をしたことになります。」
人間は喜怒哀楽があり、感動する生き物である。いろいろなことを感じながら人生を全うする。人が手にする商品は単なるモノではない。いまの消費者は企業の先にある人を見ていて、消費者と企業の関係は実は人と人との関係だと、その創業者は語っている。従って、集団を構成する個人の一人ひとりが輝かなければ顧客に感動を届けることができない、そうした想いから発せられた言葉である。
人を感動させるためには、自らも感動する心を持っていなければならない。「也太奇(やたいき)」1)という禅語がある。訓読すると「也(ま)た 太(はなは)だ 奇なり」、何かに驚いたり、「感動」したりする時に思わず口からついて出る「ああ不思議だ」といった感嘆の声である。大人になると、経験を重ねることで、何を見てもどこかで見たような気がする。旅行に出かけても初めてではないような気分になったりもする。しかし、素直な心をもてば、人からは他愛のないと思われるものも楽しみ、感動することができる。「心を動かす」ことを億劫がっていたら、情緒がなく底の浅い人生になってしまう。心は自由に動かせるのだから、面倒がらずに、自由な心で素直に感動することが大切だと、この禅語は教えてくれる。
感動する心の大切さについては、女性の海洋生物学者レイチェル・カーソンも著書『センス・オブ・ワンダー』の中で述べている。センス・オブ・ワンダーとは、大自然の持つ神秘さや不思議さに目を見張る「感性」のことである。彼女は、「子どもたちの世界は、生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激に満ち溢れている。ところが、われわれ人間は、大人になると、子供の頃に持っていたこの感性が弱まってくる」と言う。しかし、失ってしまった感受性を取り戻すためには、「はじめて見るもののように、そして、もう二度と見ることができないもののように“自然”を見る。そうすれば、われわれ大人も自然に対する感性を蘇らせることができる」と提唱している。
もし私たちが「感性」(心を動かすこと)を取り戻すことができれば、都会に暮らしていても、ベランダのひと鉢の小さな植物にも自然の生命の営みを感じ、また遠くの空を見渡しても雲の姿形や風の音に自然の偉大な力をいただくことができるだろう。
例えば、夕日を見るのはどうだろうか。夕日は、いろいろな姿形、表情を見せながら、今日一日の幕を引いていく。茜色に染まった空を見ていると、何か気持ちが癒される。山や海といった自然に出かけることができなくても、都会のビルの谷間に沈む夕日でもよい。それを見ているだけで、自然の偉大さと、生きる喜び、生きる素晴らしさを感得できる。そこには、阿弥陀の西方極楽浄土に往生できるという「想い」が重なりあってくるから不思議である。
愛 → 想
漢字の“愛”は、「旡(後ろを振り返る人)+心(こころ)+夊(下向きの足)」からなり、立ち去ろうとして後ろに心がひかれる人の姿から、その心情を愛といい、「いつくしむ」の意となる。“愛”を使った熟語には、愛情、愛着、愛好、恋愛、親愛、…がある。
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“愛”という言葉は、古今東西、文化の違いにより様々な認識があった。日本の古語の「愛(かな)し」は、しみじみとかわいい、いとしい、心がひかれる、といったさまを意味した。ギリシャ語には、自然的、欲求的な愛を意味するエロスの他に、フィリアー (隣人愛) 、アガペー (自己犠牲的な愛) 、ストルゲー (家族愛)などがある。キリスト教における愛は、喜んで自分を相手に与える献身的な愛であり、それは神から授かるものとされる。そこで聖書をギリシャ語に訳すとき、愛という言葉にエロスではなくアガペーという言葉を当てたという。
ちなみに、プラトンの『饗宴』に登場するエロスは、父=ポロス(充足)と母=ベニア(不足)の息子で、その中間的存在にあり、美や善などを充足することがなかった。そのため自己を満たしてくれる美なるもの、善なるものを求めて、常に「知」を希求する。そして、最高の価値である完全なイデア(形相、価値)をどこまでも追及する探求者、知を愛する愛知者として描かれている。ちなみに、この愛知という言葉は、ギリシャ語の“フィロソフィア”であり、これを日本では“哲学”と訳した。
この知と愛は同一のものだと論じるのが哲学者・西田幾多郎である。西田は著書『善の研究』の中で、知と愛は、一見すると二つの異なる認識の方法のようであるが、それらは、主客合一(自分と対象が一つ)になろうとするとき、共に動き始めるものだという。例えば、美しい絵画を見たり、素晴らしい音楽を聴いたりして感動すること、他の人が悲しんでいる姿を見て涙すること、そうしたことが主客合一の作用だというのである。
そして、普通の知とは非人格的対象の知識であり、愛とは人格的対象の知識だという。ここでいう「人格的」とは、人であるかどうかではなく「生けるもの」を意味し、「非人格的」とは、「止まっているもの」を意味している。「生けるもの」を生きた存在として感じるとき、人は内なる愛をもって対象に接することになる。しかし、愛が失われた目で世界を見ると、「生けるもの」も「止まっているもの」であるかのように映る、と西田は論じている。2)
たとえば小さな子どもたちは、お気に入りの縫いぐるみや玩具を、どんなにボロボロになっても大切に仕舞っておく。そこにあるモノは生きた存在であり、「愛」をもって対象に接しているのである。商品・製品というモノが、単なるモノ(物質)ではなく、愛着あるモノとなるには、モノを生きた存在として感じてもらわなければならない。そうするためには、そもそも作り手に「想い」がなければならないし、そして、その想いが伝わらなくてはならない。物理的な機能や金銭的な価値だけではなく、人の心を惹きつけてやまない何らかの働きや価値を、モノに対して考えなければいけないのである。
嘗ては、自分が使い込んだ思い入れのあるクルマを「愛車」と呼び、カメラを「愛機」と呼んでいた。そこにあるモノは「生きた存在」であった。しかし、クルマもカメラも電子化、自動化が進むにつれて、そうした言葉も使われなくなってしまった。昔のモノには、自分で操作する楽しみがあり、モノとの一体感があった。ここに、心を惹きつける価値のヒントが隠されているのではないだろうか。
モノが、ふたたび愛車、愛機と呼ばれる存在となって欲しい。モノを通して作り手の「想い」が使い手に伝わり、使い手はモノを「生きた存在」として感じ取り、「愛」をもってモノと接する、そんなヒトとモノとの関係を期待したい。
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2) 『100分de名著 西田幾多郎「善の研究」』(NHK出版)
連載予定(過去掲載分は、タイトルをクリックしますとページに移ります)
・連載にあたって | 5月 |
・第1話 漢字マンダラ | 5月 |
・第2話 ”変”、“知”、 “理”、“道” | 6月 |
・第3話 “革”(および “価”、”蛻”、…) | 7月 |
・第4話 “創”(および “夢”、“断”、…) | 8月 |
・第5話 “考”(および “観”、”望”、…) | 9月 |
・第6話 “結”(および “包”、”緯”、…) | 10月 |
・第7話 “和”(および “幹”、”芸”、…) | 11月 |
・第8話 “調”(および “静”、”流”、…) | 12月 |
・第9話 “想”(および “真”、”感”、…) | 1月 |
・第10話 “徳”(および “悟”、”軸”、…) | 2月 |
・連載を振り返って | 3月 |
筆者プロフィール
常盤 文克(ときわ・ふみかつ)
元花王会長。現在、常盤塾で学ぶ。大事にしている言葉は「“自然”は我が師、我が友なり」(“自然”に学び、自然と共に生きる)。著書に『知と経営』『モノづくりのこころ』『楕円思考で考える経営の哲学』など多数。
丸山 明久(まるやま・あきひさ)
日産自動車技術企画部在籍時に丸の内ブランドフォーラムに参加、常盤塾に出会う。常盤塾・塾生。現在は、常盤塾での学びを果樹農業経営で実践中。