ベンチャーとしてのBOØWY:革命を起こしたロックバンド

(こちらの記事は、マーケティングホライズン2021年5月号『土地の地力 魅力度ランキングかい? 実はすごいぞ群馬県』に記載された内容です。)

日本で歴代最高のロックバンドは? 色々と意見はあるだろうが、日本の音楽シーンはBOØWY以降でガラリと風景が変わったという声もあるように、影響力ではBOØWYが一番と言ってもいいだろう。

上り調子の時に解散し、1988年の最後のコンサート「LAST GIGS」は、区の電話回線が障害に見舞われるほどチケット予約が加熱し、社会現象と報じられた。BOØWYのフォロワーは数知れず、(例えば1989-90年のTBS番組「三宅裕司のいかすバンド天国」など)バンドブームの火付け役とも言われ、ロックのエコシステムに与えた影響は甚大だ。

再結成もなく、伝説となり、BOØWY出身の氷室京介と布袋寅泰のレコード/CDセールスはBOØWYを超えた。BOØWYのベスト盤や未発表ライブ、〇〇記念などの企画は大きなセールスを記録し続け、同時代での体験のない若い世代にもファンをつくり、いまも再結成してほしいバンド・グループランキングで1位や(SMAPに続いて)2位にランクされている。革命的なバンドBOØWYは、いかにして生まれたのか? ベンチャー的な視点で紐解いてみたい。

 


スタートアップ


 

エネルギーは強いが荒削りの群馬県高崎市出身の三人、氷室と布袋、そして松井恒松(現:松井常松)らがバンドを始めようと1980年に集まった(翌年、福島市出身のドラマー高橋まことが加わる)。

氷室はコンテスト入賞を経て音楽事務所ビーイングにスカウトされたが思うようにならず、新たなバンド結成を進めていた。ところが、横浜銀蝿が人気だから群馬暴威をバンド名にとか、事務所からただの思いつきを当てはめられようとした。

1981年に氷室京介がリーダーの「暴威」として始動したが、メンバーのルックスも歌詞も不良やパンクっぽく、ここまでだと数あるロックバンドの一つで終わっただろうが、やがて大きく転換することになる。

ベンチャーでは「事業は人なり」で、チームメンバーが極めて重要だ。筆者は起業家の要件に生命エネルギーの強さをあげるが、BOØWYのメンバーは生命エネルギーも実力も際立っていた。筆者は1983-84年に、布袋と高橋の演奏を何度も体験したが、ライブハウス界隈では頭抜けており、他のミュージシャンも同様な声だったと記憶している。

 


ピボット



スタートアップの多くは、ピボット(転換)を経て、成功へと向かう。バンドの場合、プロダクションやレコード会社がそうさせることも多いが、彼らは他人からやらされることはもう嫌だと、自らピボットした。

1982年にBOØWYに改名して音楽性もファッションも転換し、メンバーも6人から4人に。高崎で布袋とバンドを組んでいた土屋浩がマネジャーとなり、1983年に事務所からも独立。音楽は8ビートを基調に、ニューウェーブの影響を受け、様々な要素を消化したものへと進化した。ビジュアル系が認知される前に、ファッションを重視しジャンポール・ゴルチエの衣装ほかビジュアルを工夫した。

なお当時、布袋と高橋は、他のバンドと掛け持ちするなど、先鋭的な音楽やビジュアルには常日頃から接していた。ちなみに、筆者も携わったツバキハウスでのイベントに、BOØWYメンバー揃って遊びにきていたこともある。

BOØWYは、「誰にも似ない何処にも属さないというバンドスタイル、斬新なビジュアル」が特徴とよく言われるが、インディーズや海外に目を向ければ驚くほどのビジュアルではなかったが、日本のメジャーなロックでは先駆だった。「誰にも似ない」という点は、従来のバンドのモデルから抜け出て新たなジャンルを開拓し、結果としてスタートアップでいう市場創造型のアプローチとなった。

 


グロース



BOØWYがその世界観を築いたのはサードアルバム「BOØWY」だ。そして、これに続く作品はミリオンセラーを含む当時のロックバンドとしては驚異的な売上となる。ベルリンのハンザトンスタジオで、佐久間正英(元プラスチックス)プロデュースで、「BOØWY」はつくられた。プロとの作業で一段階上のレベルに引き上げられたとともに、高橋は「あの独特の空気感はレコーディングに絶大な作用を及ぼした」と記し、「あれから氷室の書く詞が変わっていった」との土屋の言葉もある(出典:高橋まこと著(2017年)『スネア』立東舎文庫)。

スタートアップのグロース=成長のためには、プロダクトのレベルアップと同時に、市場とのフィットとユーザー獲得が求められる。しかし当時は、歌謡曲が栄え、ロックバンドはなかなか市場を獲得できなかった。歌詞やイメージがごく狭い層にしか受けないものだったことが一因だ。

BOØWYは受け入れやすい歌詞、尖った音楽性、惹き付けるビジュアルが組み合わさった新たな世界観を示し、ポピュラー音楽にイノベーションを起こした。これら要素を分析的にあげるのは簡単だが、統合したバンドと作品、そしてステージを展開するのは容易ではない。まさにシュンペーターの言う新結合だ。それらの横串となったのは、ロックとしては際立つメロディーであり、カッコイイ音楽を創るという目的に向かうチームワークだったのかもしれない。

 


群馬を福岡と比べてみる



もし彼らが群馬でなく福岡出身だったらどうなったか?ある意味、群馬は小国に例えられる。(イスラエルや欧州、アジアの一部もそうだが)自国の市場は小さいから、初めから国際市場を狙う。福岡だと、それなりに市場はあり、ライバルたちも色々といる。その上で、東京を意識して活動することが多いだろう。

高崎市は群馬県最大の市(人口30数万)だが、氷室・松井のバンドと布袋・土屋のバンドは高崎では人気だったが、ファンの数は限られコミュニティも小さかった。また、福岡は多様な人を受け入れる文化がある(近年のベンチャー振興でもそれが窺われる)が、群馬はどうだったのか。

なお、氷室は東京での成功を諦めて群馬に帰ろうとしたが、一念発起してBOØWY結成に進んだという。同じく群馬出身者のバンドBUCK-TICK(後のビジュアル系に多大な影響を与えた・・特徴ある独創的なバンドという意味ではBOØWYと同様)だが、ドラムのヤガミトールが新メンバーになるとき「悪いけど3年やって芽が出なかったら、俺、群馬帰るから」と言ってからバンドの空気が変わったという(出典:ヤガミ・トール著(2018年)『1977』音楽と人)。乾いた土地から、突出したイノベーションが起こりえる。BOØWYはその実例をみせてくれたのではなかろうか。

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本荘 修二  (ほんじょう しゅうじ)
本荘事務所 代表/多摩大学大学院経営情報学研究科(MBA)客員教授。新事業を中心に、イノベーションやマーケティングなどの経営コンサルティングを手掛ける。日米の大企業、ベンチャー企業、投資会社などのアドバイザーや社外役員を務める。500 Startups、始動ネクストイノベーター、福岡県他のメンターを務め、起業家育成、 コミュニティづくりに取り組む。監訳書に「ザッポス伝説」「ザッポス伝説2.0」がある。

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