大洲城天守の木造復元、その意義とは

天守甦る
愛媛県大洲市。四国の西、愛媛県の西南に位置する人口4万人の小さなまちです。まちの中心を肱川という一級河川が流れ、内陸の盆地でありながら瀬戸内海に出る舟運の拠点として古くから栄えました。

この地を治める時の権力者は肱川沿いの小高い丘を住処として選びました。それが「大洲城」です。鎌倉末期から江戸末期まで実に500年を超える期間、大洲の町は大洲城の城下として繁栄しました。


今でもまちの随所にその情緒、風情が残り、NHK朝ドラ「おはなはん」、映画「男はつらいよ」、ドラマ「東京ラブストーリー」などの撮影ロケ地として選ばれてきました。2004(平成16)年9月、大洲のまちに大洲城の天守が甦りました。1888(明治21)年に取り壊されて以来、110年余ぶりのことです。木造4階建て、高さ19.15mの天守は木造で復元されたものとしては戦後最高の高さとなります。総事業費は16億円、そのうち5億円を超える寄付金が市民などから寄せられました。


将来の文化財の復元
私は、1999(平成11)年、完成の5年半前に担当部署に配属され、復元報告書の作成まで都合6年間、大洲城天守の復元事業に携わりました。当時24歳、経験浅い採用3年目の若手職員でありました。ともに組んだのは、ベテランの1級建築士と、それまでも城跡整備に携わっていた歴史・文化財に詳しい中堅係長でした。



我々3名には共通の思いがありました。「復元した天守が将来文化財となるよう可能な限り本物を目指そう。そして、その価値を市民と分かち合い、市民手づくりの天守を復元しよう」という思いです。ですから、私は大洲城天守の復元の目的は何かと問われると「将来の文化財の復元」と答えるようにしています。この言わば強い信念のおかげで、様々な困難にも我々は決して妥協することなく、また苦労を苦労と感じることなく事業に取り組むことができました。


1873(明治6)年のいわゆる「廃城令」の後、全国のほとんどの城郭は処分され、大洲城の天守も1888(明治21)年に取り壊されてしまいました。しかし、写真が普及する明治中期まで維持されていたおかげで、古写真が残っていました。しかも、北面、東面、西面と3方向からの写真です。また、複数点の江戸期の古絵図、さらには、大洲藩の棟梁家に伝わる江戸期の木組み模型(市指定文化財)までもが残っていました。


また、発掘調査からは柱を支えた基礎石などが出土し、天守に関する多くのデータが入手できました。大洲城天守は外観も内部構造も当時のままに復元できる日本でも数少ない天守だったのです。加えて、城跡は愛媛県の史跡、本丸に残る2棟の櫓は国の重要文化財に指定されていました。しかも重要文化財の2櫓はそれぞれ天守と連結し、専門用語でいう「複連結式天守群」と呼ばれる建物群を構成するのです。


そのような最良の条件がそろっていることから、我々は徹底して木造復元、つまり往時の天守の復元にこだわりました。また、こだわりをもって本物を目指す復元過程をできるだけ一般公開し、市民をはじめ多くの方々の支持を得る努力をしました。しかし、往時の天守を復元するという試みは、とてもハードルが高いものでした。


まず、建築基準法の問題です。せっかく本物にこだわって木造復元したとしても、天守内に人が入れないようでは意味がありません。現行の建築基準法では、国宝、重要文化財は建築基準法が適用除外されますが、それ以外の文化財の建造物や復元建物には法が適用されます。適用されると、安全のための耐火性、排煙設備、階段の構造など様々な厳しい基準が要求されます。


そのため、国宝、重要文化財と同様に建築基準法の適用除外を求める手続きを行いました。前例のない手続きのため相当な期間を費やしましたが、最終的には関係当局が復元天守の文化財的な価値を認めてくれたおかげで、適用除外となりました。次に、復元天守の歴史考証です。建築基準法をクリアーする上でも重要な問題であったのですが、復元天守が本物であるかどうか建築史学上の考証がしっかりと行われていなければなりません。


ありとあらゆる歴史資料から復元天守の構造、規模等を割り出す作業が必要となるのです。これは、当時、日本の城郭建築史の権威であった建築史家の宮上茂隆氏(1940-1998)に行っていただきました。宮上氏は、基本設計を終えた後に残念ながら急逝されてしまいましたが、すでに緻密な歴史考証を終えた後でしたので、その成果を引き継ぐ形で、国内の専門家の先生方にプロジェクトチームを組んでいただきました。


このメンバーで実施設計をはじめ、木材の検品作業、原寸図面の確認などあらゆる工事工程の監理を行い、できるだけ本物に近づけていったのです。事業への市民参加には特段のこだわりを持ちました。今では頻繁に見られる工事中の見学者の積極的な受け入れは、大洲城が先駆けではなかったかと思います。


そのときにしか見られない伝統工法の技術を間近に見ていただこうと、見学通路を設け、安全を確保しながら我々がほぼ毎日付き添って見学の応対をしました。工事の様子をインターネットライブカメラでみることができるようにしたのも全国で初めての試みであったと思います。また、起工式、上棟式、竣工式など工事の節目はもちろん、木材の切り出しや大径木のお披露目など、ことあるたびにイベントを開催し、市民参加を呼び掛けました。


工事中に出た木材の端材(はざい)を大工さんに加工してもらい、記念材として販売も行いました。大洲城に関する情報を「かわら版復元大洲城」と称して、広報紙面や市公式ホームページで毎月連載しました。これらの取り組みは、施工業者や職人さんの協力があって実現することができたものです。我々の思いに皆が協力してくれたのです。


その結果、工事期間中の見学者は2万人を超え、いただいた寄付金は5億円を超えました。また、寄付木材もたくさん集まり、天守のすべての柱166本には提供者の名前が記されています。イベントへの市民参加も大勢ありました。市民と事業に携わる者が一体となって市民手づくりの城を実現することができたのです。


平成の新しい文化
従来から文化財を「保存」する事業は全国各地で当たり前に行われています。しかし、文化財を「復元」する事業は、保存事業にくらべると件数も少なく、まだまだ受け入れられにくい状況であると思われます。一旦無くなったものは所詮レプリカに過ぎないという感覚もあると思います。新品の復元物をみると、ある意味当然の違和感だとも思います。


しかし、数十年後、数百年後はどうでしょうか?未来の人たちが、「よくもここまで地域の歴史を大切にしたものだ」と評価してくれるときが来るかもしれません。だからこそ、単なる復元ではなく、将来に恥じない本物を目指す姿勢が必要であると思います。


天守を復元してから11年が経ちました。地域には歴史や文化財を大切にする精神がこれまで以上に育まれ、子供たちにも地域の歴史を学ぶ機会が増えてきました。また、地域の新しいシンボルとなった大洲城では、市民グループによる自主企画活動が数多く実施されています。歴史をテーマにした観光戦略にも箔がついてきました。肱川での観光鵜飼や川下り、カヌーなどから見る大洲城の眺めや、昨年登場したJR四国の観光列車からの眺望も好評です。


地域の特色や独自性は、その地域がもつ歴史や自然に裏打ちされたものです。「地方創生」が叫ばれる今、地域にある歴史や自然、そこから生まれる風土や文化、引き継がれる伝統を皆で再認識し、磨き上げ、その上で地域の活力に利用しようとする現代日本人の努力は、平成という時代の「新しい文化」であると思います。


日本の長い歴史軸のなかでみたとき、平成という時代は、全国各地で一斉に地域の歴史が見直され、活用されるという地域のルネサンス的な時代として認められるのではないでしょうか。その象徴として、将来、大洲城天守が評価される日を我々は楽しみに待っています。


村中  元   (むらなか  はじめ)
大洲市 観光まちづくり課 まちづくり係長

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