「弱者こそ強い」を 京都・丹後の街で実証する

日本が世界に誇る美食の街、京都・丹後とは
京都の北部、天橋立や伊根の舟屋を有する丹後の街は、そこかしこで異国の言語が飛び交う。一年を通して国内外の食いしん坊が訪れるこの街では、地元の料理人のみならず都市部から移住してきた好奇心旺盛な料理人の味を楽しむことができる。

地元の山海の幸に関わる生産者の表情も明るく、古民家の再生やリゾート用建築のラッシュに街は活気付いている。一旦は地元を離れた若者たちの多くがUターンし、自身の活動とこの街の未来を重ねているようで、なんとも頼もしい―。

これが私の思い描く2025年の丹後の街である。

 

一方、現状はというと、年間540万人が訪れる観光地の割に、景気のいい話は聞こえてこない。その理由は団体客、とくに日帰り客が多いこと。天橋立の景色を眺めたら軽いランチをとり、少し散策して帰路につく人がほとんどだ。京都府の報告によると丹後地域を訪れる観光客の単価は三千円。観光収入は165億円に過ぎない。

 

老舗の高級旅館や大手リゾートホテルもあり、週末はそれなりに賑わっているが、その利用者は全体のごく僅かであることが統計からも読み取れる。大きな要因のひとつに、京阪神からの高速道路が延びたことによる利便性の向上がある。それ以上にわざわざ泊まるほどの理由がない、というのが私の見立てだ。

 

日本三景のひとつ天橋立を有する丹後でさえ、この有様。というより、資産のない、普通の田舎に比べて恵まれた地域だからこそ一点突破できず、過去の成功体験から茹でガエル状態に陥り、いまに至るのではないか。この街に生まれ育った者としては、歯がゆさと共に大きな可能性を感じている。

 

小さなお酢屋が120年、生きながらえてきた理由

1893年に京都・丹後で創業した飯尾醸造。初代は日本一のお酢を造りたいと『富士酢』と命名したそうだ。三代目が地元・丹後の無農薬栽培米を使った食酢製造に舵を切ったのは50年以上前の高度成長期のこと。「食の安全」より効率が優先されていた時代、手前味噌ではあるが見事なニッチ戦略だと思う。

 

四代目の父の時代には、契約農家の作業負担を減らす目的で様々な農法に取り組むと共に高値で米を買い取るなど、強い信頼関係を築いてきた。また15年ほど前からは後継者不足による耕作放棄地の増加という問題に対して、里山の景観保全を目的に蔵人自らが棚田で手植え・手刈りするという解決策で応えた。その後、国定公園の一部や「里地里山30選」に選ばれるなど、小さな取り組みは少しずつ芽を出している。

 

10年ほど前からは毎年、富士酢ユーザーが田植え・稲刈り体験会に参加してくれている。主に首都圏や京阪神から手弁当で来られる皆さんとは作業後、居酒屋を借り切って懇親の場をもっている。宿泊者が多いことも、結果的にこの街や自社の理解につながっている。このように飯尾醸造は現在、米作り・酒造り・酢造りのすべての工程を自前で行う、おそらく日本で唯一のお酢屋である。

 

一方、小さなお酢屋がなんとか今日までやってこられた理由は、手間と時間をかけて造ってきたからだけではない。自分が弱者であることを知っているから、誰もいない場所を選び、誰よりもお客様の近くに行き、誰よりも丁寧に対話してきたからだと信じている。そしてそれは街づくりにおいても同じはずだ。

 

「2025年に丹後を美食の街に」という妄想

 数年前から会う人会う人にこの妄想を披露している。正確には「披露」だけではなく、これはと思った人(特に腕利きの料理人)には移住を「勧誘」「強要」している。いや、彼らにとっても悪い話ではないと・・・。

 

というのも、弱者である京都・丹後は「この地域ならではの美味しいもの」にフォーカスすることで、もっとも低コストで大きな効果が見込まれると考えているからだ。もちろんB級グルメや東京でも食べられるものでは意味がない。なんせ丹後は間人蟹や寒ブリ、とり貝などの魚介、丹後コシヒカリや万願寺とうがらし、イノシシや鹿のジビエなど山海の幸に恵まれている。

 

十を超える酒蔵も。お酢屋だってある! つまり食材の宝庫なのだ。しかも京阪神から2時間。これらを都市部のレストランに卸すのではなく、この街で食してもらう体験こそが価値となり、人を呼び、外貨を獲得できる。

 

と鼻息荒く、今年7月に南イタリア料理店aceto(イタリア語で「酢」を意味)をオープンしてしまった。行政からの補助を受けることなく築120年の古民家を買い取り、東京から(強引に)お気に入りのシェフを招聘した。お陰様でいまのところ、東京や京阪神からもたくさんの方が足を運んでくださっている。ディナー営業のみとすることで、宿泊を誘引する。滞在時間が延びることによって、街への理解が深まり消費が増えることも期待している。

 

同じ敷地内の土蔵を活用したカウンター6席の高級鮨店も同時オープンの予定だったが、鮨職人が決まらず現在は工事のみ完了し、あとは主の到着を待っている。私たち蔵人が手植えした米、15年ものの赤酢を使ったシャリの上には、江戸前の仕事を施した丹後の魚介。日本で一番フードマイレージの小さい(つまり米・酢・魚の全てがローカルな)鮨は「美食の街」のシンボルのひとつになると期待している。

 

イタリアンと鮨屋のふたつだけで街が変わるわけがないと言われるかもしれない。たしかに銀座や祇園であれば何も変わらないだろう。しかし弱者である田舎においてはひとつの店が街を変えるきっかけとなる。スペインの片田舎のビーチリゾートだったサン・セバスチャン、コペンハーゲンにあるレストランNomaなどレストランが街を変えた事例は世界中に数多あるのだから。

 

あとは一流のシェフの移住と若手育成のしくみを確立し、廻していくこと。これがいちばん難しいのは私自身、よく理解しているつもりだ。とはいえ、チャンスはある。

 

「競わない」ことを選んだ料理人の移住が街を変える

 銀座や祇園に店を出しても成功確率はかなり低い。この国における飲食店の10年生存率が5%という統計があるが、特に都市部ではさらに低い。断言しよう、小さな資本が都会で出店することはハイリスクでしかない。出店費用がべらぼうに高いことはもちろん、家賃などランニングコストも高い。つまり投資費用の回収に長い時間がかかる、いや回収できない可能性が高い。

 

一方で、都会で研鑽を積んだ料理人にとって、田舎の観光地では競争する必要がない。その割に地方の食に興味・関心をもつ旅行者が非日常を求めて足を運んでくれる。料理やしつらえ、価格帯をずらせば地元の既存店とは競合しない。単純に新しい需要を創造できる。出店費用、家賃ともに低いため、昼夜の営業を強いられることもない。休みも含めて自分自身に意思決定権があるのだ。人財さえ確保できれば成功する確率は都市部の比ではない。

 

このからくりを理解した料理人と一緒に「美味しいものだらけの街」をつくることに決めた。農家などの生産者、地元の料理人にとっても、彼らの流入が大きな刺激となることは間違いない。美味いものがあれば宿泊客が増えて街は変わる。動き出す。

以上が私の妄想である。

 

これが2025年に現実のものとなるかどうかはともかく、一度たしかめてやろうと思われた方はぜひお声掛けいただきたい。その際はぜひacetoと近隣の宿泊予約を(笑)。

 

飯尾 彰浩 (いいお あきひろ)
株式会社飯尾醸造 五代目当主 兼、南イタリア料理店aceto 店主。
京都府宮津市出身。2000年東京農業大学大学院を修了後、コカ・コーラ入社。営業、営業教育、マーケティングに携わる。2004年飯尾醸造に入社、五代目見習いを経て2012年より現職。社会性と経済性の両立を意識した経営を心がけている。

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