バスケで秋田を元気に:ゼロからの挑戦

バスケで秋田を元気に:ゼロからの挑戦 AKITA NORTHERN HAPPINETS

(こちらの記事は、マーケティングホライズン2020年7月号『根力と軸行力』に記載された内容です。)

私は人口減少率ワースト1位の秋田県にて10年前にプロバスケットボールクラブの立ち上げを行った。そもそも私の出身は東京都杉並区である。秋田には国際教養大学の入学が縁で16年前に来た。最初に秋田に来た時は、親戚・知人・友人、誰一人もいなかった。まさに縁もゆかりもない所で、ゼロからプロチームの立ち上げを行い、現在も国内最高峰のプロバスケットボールリーグ『Bリーグ』B1(1部)に所属する秋田ノーザンハピネッツの代表を務めている。

では、なぜ秋田でプロバスケットボールクラブを創ろうと思ったのか?秋田に住み始めたときに感じたことは、秋田の素晴らしさだった。山・川・海と自然に恵まれた環境、豊富な温泉地、おいしい食べ物、秋田の暖かい人々と触れ合う度に、どんどん秋田を好きになっていった。しかしその反面、何か秋田という街に活気が少ないなと思うことも多くなっていた。


「秋田をもっと元気にしたい」その思いが秋田に住んでいく中で強くなっていき、秋田を活性化するには何が必要かと考えたとき、留学先のアメリカやオーストラリアで見てきたプロスポーツチームのある生活の光景が思い浮かんだ。両国ともプロスポーツ大国であり、私の留学した地域では地元プロチームを応援するという日常をみんなが楽しんでおり、試合会場が地域の人たちの交流の場になっていたのである。


日本でも1993年にJリーグがスタートして以来、プロ野球の独立リーグ、そしてバスケットボールのbjリーグと『地域密着』をキーワードに全国各地でプロスポーツチームが誕生し、地域おこしの核を担っている。


しかし、当時秋田にはまだ“おらほのプロチーム”が存在してなかった。秋田のスポーツといえば、真っ先に頭に浮かぶのがバスケットボールである。秋田には全国優勝58回という輝かしい実績を誇る能代工業高校があり、1984年にはいち地方の実業団クラブであった秋田いすゞ自動車が並み居るナショナルメーカーを破り、天皇杯を獲得している。


そんな『バスケ王国』秋田に頂点としてあるべきプロバスケットボールチームがなかった。秋田はバスケットボールが根付いている地域性があり、かつ雪国のインドアスポーツとして、冬場に天候を気にすることなく観戦して楽しめる娯楽としてもプロバスケットボールの可能性を感じていた。


秋田にプロチームがないなら自分で創るしかないという考えのもと、秋田に残る決意をし、チーム創設及びbjリーグへの参入活動を始めた。大学卒業後すぐであり、当然お金はなかった。あったのは、チームをつくりたいという情熱だけだった。最初は私と共同創業者の高畠の二人で地道に活動していった。


署名活動、街頭でのPR活動、秋田の財界人へのアプローチなどありとあらゆることをやった。特にbjリーグへ参入するためには、1億円ほどの資金の確保が絶対的に必要だった。そのために実際にすでに運営していた様々なプロクラブへ勉強に行き、事業計画書をつくり、運営会社への出資を募っていった。


当初は「秋田でプロスポーツチームなんてできっこない」というようなことを言われたりもしたが、他の地域でできているに秋田でできないはずがないと決してあきらめずに活動していると、徐々に活動の輪は広がっていき、本格的に活動を始めて約1年後の2009年5月にbjリーグ参入が決定した。


2010年10月に秋田ノーザンハピネッツ1年目シーズンがスタートし、2016年からはbjリーグとNBLのリーグ統合によりBリーグに参入。現在は東北唯一のB1クラブとして活動をしている。観客数も年々増加しており、昨シーズンの平均観客数は3,400名を超え、この10年で秋田県内では知らない人はいないと言っても過言ではないくらいの地元に密着したクラブとなってきた。しかし、私たちは秋田に永続するクラブを目指しており、永続していくためにはまだまだ志半ばである。


よく秋田県民は“熱しやすく・冷めやすい”県民性だといわれる。だからチームをつくるときには、秋田でプロチームを運営するのは大変だよといわれることも多々あった。ただそういったことは当時からチーム運営には関係ないと考えていた。


なぜなら私たちはブームをつくろうとしているわけではないからだ。ブームには流行・廃りがあるので、そこには“熱しやすく・冷めやすい”ということが当てはまるかと思う。しかし、我々が目指すところは永続するクラブである。そこで、2011年シーズン2年目の開幕戦、ホームアリーナにて『県民球団宣言』というセレモニーを行い、永続するクラブを目指すことを誓った。


県民球団宣言の中では、秋田ノーザンハピネッツの活動理念を3つにまとめ、理念を具現化していくために7つのビジョンも掲げ、県民球団宣言をクラブの指針として活動してきた。(図1 県民球団宣言 参照)


秋田はこれからも人口減少が予測される地方都市の最たる地域である。現在約95万人の人口が2040年には70万人を切るといわれている。そんな秋田だからこそ、地元のシンボルとなりうるプロスポーツクラブの存在はこれからも大事である。そして、地方都市でもまだまだプロスポーツクラブは成長していけると考えている。


世界的に見てみて、小さな都市ながら成功しているプロチームの最たる例が「グリーンベイ・パッカーズ」ではないかと思っている。パッカーズはウィスコンシン州グリーンベイに本拠地を置くNFL(アメリカンフットボール)のチームである。パッカーズは熱狂的なファンが多いことで知られており、NFL最多となる13回の優勝を誇っている。


そんなNFL屈指の人気チーム、パッカーズではあるが、なんと本拠地グリーンベイはわずか10万人余りの都市。アメリカプロスポーツ界でもっとも小さなフランチャイズ都市である。他のNFLのあるチームは人口100万人以上の大きな都市にあるのがほとんどである。パッカーズは地元の人たちに支えらており、NFLの中で唯一の市民株主チームとして運営している。


そんな小さな町で、パッカーズの7万人収容スタジアムは常に満員となっている。入場チケットは1960年以来60シーズン連続で完売しており、年間のシーズンチケットも常に完売中。現在シーズンチケットの購入希望者の順番待ちは約13万7千人とのこと。シーズンチケットホルダーの99%以上が翌年のシーズンチケットを更新するため、手放す人がほとんどいない。シーズンチケットはパッカーズファンの家宝となり親子3世代でチケットが引き継がれていっている状況である。


パッカーズがそうであるように、秋田でも大都市のクラブよりも多くの観客を集める人気クラブとなることは可能だと思っている。しかし、そのためにはチームはより強くなっていかなくてはならないし、クラブはより地元に密着した活動をこれからもしていかなくてはならない。またSNSを活用した発信も大事になってくる。


さらに、新型コロナウィルスの影響により、プロスポーツクラブは今までに経験したことのない新たな形態での運営を強いられることになりそうだ。今までのようなチケット売上やスポンサー売上の増加を目指したホーム会場にできるだけ観客を入れることにより成り立つビジネスモデルからの脱却を迫られている。


この状況はつい半年前までは誰も考えたこともなかった状況であり、経営者としても今までとは非にならないほどの創意工夫が求められている。しかし、ウィズコロナの時代を生き抜くことにより、クラブはさらに成長していけると信じている。だからこそ基本理念は崩さずに、新たなことにチャレンジしていく1年にしていきたい。

クリックして拡大(図1~3)



水野  勇気  (みずの  ゆうき)
秋田ノーザンハピネッツ株式会社  代表取締役社長
1983年、東京都杉並区出身。2001年 高校卒業後、スポーツマネージメントを学ぶため、シアトルへ渡米。Seattle Central Community College入学するも、1年後、家庭の事情により帰国。
2002年 造園会社勤務、2004年国際教養大学国際教養学部(秋田県秋田市)に1期生として入学。
グローバルビジネス専攻。3年次にオーストラリアのGriffith University へ1 年間交換留学。スポーツ大国オーストラリアにてスポーツマネージメントを学ぶ。2008年「秋田プロバスケットボールチームをつくる会」発足。2009年秋田ノーザンハピネッツ株式会社(旧名:秋田プロバスケットボールクラブ株式会社)代表取締役社長就任(当時26歳・プロスポーツ界最年少社長)。

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