場(ステージ)を大切にした濱田庄司

(こちらの記事は、マーケティングホライズン2020年10月号『アートが変える!』に記載された内容です。)

濱田庄司は自らの人生を「京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と、述懐しています。自らの人生の成長の道程を、4つの場(ステージ)に合わせ、道を見つけ、始まり、学び、育った、と端的な言葉でこれらを表しています。濱田の活躍のステージとなった4つの場との繋がりを、これから順を追って詳しく述べていきます。


京都で道を見つけ


 

東工大で窯業を学んだ濱田は、大学の2年先輩の河井寛次郎が先に入所していた京都陶磁器試験場に河井の後を追って入ります。二人は陶芸の研究に没頭しました。この時は二人とも、技師ではなく将来陶芸家になることを認められての、試験場の寛大な理解の下での研究活動でもありました。

濱田が「道を見つけ」と述べた京都時代の約3年半は、その後の人生のすべての起点となった大切なステージとなりました。研究所の先輩技師の小森忍からの指導、近藤悠三や松林鶴之助との交友、富本憲吉との出会い、柳宗悦やバーナード・リーチ、白樺派との交流、河井との沖縄や中国(当時の満洲)や朝鮮半島の旅行、益子も初めて訪問しました。

経済的文化的な支援者となる大原美術館の大原孫三郎、総一郎親子(クラボウ、クラレ創業者)やアサヒビール初代社長の山本為三郎との交際、さらにはリーチとの渡英の決意など、たった3年半の期間で20歳代中盤の青年濱田が、その後の60年を左右する出会いと決心を一気にしてしまった時期でした。

後年の旺盛な創作活動と並行した収集活動もこの時期に始まっていて、京都市内の骨董店の瀬戸の行灯皿の虜となり何点も集めました。歴史と伝統の薫り濃い京都で、若き濱田は自らの道を見つけ存分に羽ばたきました。

 


英国で始まり


 

今からちょうど100年前、京都陶磁器試験場を後にして濱田はリーチと船で渡英しました。折しもスペイン風邪が全世界で猛威を振るっていた時期で、様々な国の漁港に停泊しながらの船旅で感染しなかった二人は幸運でした。

作家活動の始まりとなるステージに英国を選んだことに、濱田の知人や支援者は皆反対しました。それというのも、英国ではかつてはスリップウェアなどの軟陶が盛んに作られていましたが、手仕事の陶芸産業が衰退し代わりにウェッジウッドなどの磁器メーカーの量産工業品が幅を利かせるようになっていて、手仕事の職人、ましてや陶芸家という職種は英国に無く、言わば陶芸後進国という状態でした。

濱田の陶芸家としての記念すべき第一歩は陶芸先進国の日本か中国で始めるのが早道との意見は間違いではありませんでしたが、当時の日本の工芸に閉塞感を感じていた濱田は、状況を打開すべく英国行きに賭けました。目的地のセントアイヴスに到着してみると日本のような窯業産地の様子はありませんでした。

起伏にとんだ地形と砂浜に大西洋が目前に迫り風光明媚で多くの画家が集う町ではありましたが、海風の強い岩場の漁港で、地面は岩盤なので粘土も採れず強い海風で樹木も茂らず、作陶の粘土も窯焼きの燃料の薪も探すのに一苦労という状態でした。

思うようにリーチポタリーを運営できないリーチは焦りとともに濱田への詫びを繰り返していましたが、濱田は「東京や京都での恵まれた環境下では得られない、何も無い所から一から工房を立ち上げる経験を出来たことは素晴らしいことだ。」と返しリーチを励ましました。

西洋初の日本式の登り窯を建設するにあたっては、京都時代の後輩の松林鶴之助を呼んで築窯を依頼しました。この記念すべき登り窯は、現在もリーチポタリーの見学ゾーンの要です。濱田とリーチは、まず産業革命のころに廃れてしまったスリップウェアの研究と再現に取り組みました。

さらに濱田は、イギリスで活動したすべての陶芸家の中で最初に、芸術を扱う本格の一流ギャラリーでの展覧会を成功させてもいます。先述したように西洋ではこれまで陶芸家という職種は無く、セントアイヴスのリーチや濱田、ロンドンに拠点を置いた数名がようやく陶芸家を名乗り始めた時代でした。

リーチを含めたイギリス人は、その社会的な立場の低さから物産市などでの出品を念頭に活動を始めていた状況でもありました。陶芸先進国の日本で東工大と京都陶磁器試験場で実績を残した若きマイスターという評判の濱田の方が、英国での芸術的な評価を得やすかったのかも知れません。

ロンドンの名門、パターソンギャラリーでの初個展を完売で成功した濱田は、帰国後もパターソンギャラリーとは良好な関係を続け、数回パターソンギャラリーで展覧会を開催しました。陶芸家として英国で初めてアートの場で作品を発表した濱田は、英国の陶芸家の地位を変えた記念すべき人になりました。

また、濱田はセントアイヴスのリーチポタリーでの作陶以外でも様々な場所へ赴き、多くの芸術家やデザイナーたちと親交を結びました。濱田が接した作家たちの多くは、田舎暮らしを好みました。彼らは、豊かな自然の中で古い建物を大切に使い、家の内装をそれぞれの作家の意志のもとにデザインし直し生活し創作していました。

その自然な暮らしの中から自然に作品が産まれてくる仕組みに濱田は感心し、帰国後も田舎で暮らし作陶をすることを決めました。この時濱田は、健やかな暮らしから健やかな品物が産まれることを理想に掲げますが、この理念は後に柳宗悦、河井寛次郎とともに興した民芸運動の理念と共通するものとなりました。

そして、英国から見た日本、世界から見た日本、都会から見た田舎など、英国において世界を知り、インターナショナルな感覚をもって価値観を変えたことが、日本特有の文化や田舎のローカルな特性を大切にする心を持つきっかけとなりました。


沖縄で学び


 

帰国後に田舎で作陶を始める決意をした濱田には候補地のステージが2つありました。1つは益子でもう1つは沖縄でした。初めて訪沖した時から濱田は沖縄の底抜けに強烈な個性に惚れこみました。那覇市の郊外の壺屋の新垣窯を拠点に、陶芸以外でも染織、漆、ガラスなど様々な工芸に接し、多くの作り手と親交を結びました。

また戦中戦後の沖縄の工芸の復興応援にも尽力し、民芸運動を通して多くの作り手の支援や指導にもあたり、終生沖縄を大切に思い続けました。沖縄初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に金城次郎を推薦し金城の全国的な活躍を後押しし、染織家で同じく人間国宝の宮平初子を支援するなど、沖縄の工芸を全国的な知名度の産地へと変えていきました。

このように濱田にとって沖縄は密接な場でしたが、英国から帰国後の作陶の本拠地とするには沖縄の個性は濱田には強すぎること、また民芸運動の拠点となる東京からも遠すぎることなどから、沖縄に住み暮らすのではなく、時折自らの作陶の刺激とするため滞在制作するという位置づけにしました。

豊かで且つ激しい自然の中で、どんな苦難にも明るく逞しく生きる沖縄の人々の様子とその産物となる手工芸品には、大いに学び刺激を受けることになりました。琉球文化を守る沖縄の作り手の情熱は、濱田の作陶のエネルギーの源泉の1つに、また後に始まる民芸運動の活力の1つにもなりました。

 


益子で育った


 

京都、英国、沖縄の濃密な10年弱の研鑽の後に、濱田が自らの作陶の拠点としての安住のステージとしたのは益子でした。やはり、濱田の周囲では、帰国後は河井が活躍する京都や、東京近郊などの先進地で活動すべきだという意見が多数でしたが、濱田の作陶と生活のイメージは英国と沖縄で経験した田舎の健やかな営みでした。

かねてから念頭にあった益子は純朴な田舎町で、江戸時代後期から続く窯業も盛んで粘土や松林も豊富で、また東京までもさほど遠くなく、まさに濱田にとっては理想郷でした。

益子は、信楽や瀬戸の技術を汲む笠間の職人が江戸時代後期に入り発展しました。濱田が入村した頃は約20軒の窯元に職人が集い甕、すり鉢、土瓶などを作る民芸の産地でした。陶芸家は一人もいなかったので、濱田が益子での最初の陶芸家となりました。じきに町はずれの南斜面の山肌に工房と住居を定め、「健やかな暮らしから健やかな品物が産まれる」との理念のもと、住居や工房には建物を新築せず、江戸から大正期までの古民家や古工房、長屋門などを購入し邸内に移築しました。

そのころ日本の田舎ではどこでも都会化に憧れ始めた時期で、益子の職人達ももんぺや絣の作業着から洋服に変わり始め、近代的な文化が徐々に押し寄せていました。そんな中で濱田は、世界から見た日本の良さ、都会から見た田舎の良さにこだわり、あえて茅葺きの古民家で暮らし藍染めの作務衣と下駄ばきで作陶しました。

どっしりとした茅葺きの母屋には囲炉裏や五右衛門風呂(鉄窯の浴槽の湯を薪で温める風呂)を使い、その灰は陶芸の釉薬にしたり邸内の畑の土に撒きました。濱田が益子へ来た頃は世の中の近代化が進み、益子を含め多くの窯業地が転換期を迎えていました。

インフラが整い水道が敷かれると水甕の需要が落ち、すり鉢も練り味噌が販売され自ら味噌を擂る必要がなくなり、土瓶はやかんにとって代わりました。日用品の多くが陶器から他の素材へと変わっていったのです。益子の主力商品が売れなくなってきた時期でしたが、そんな中でも濱田は益子の職人たちの仕事を尊敬し、「今まで京都や英国などで様々な技術や知識を身に着けたが、そんなものはすべて捨てて私が益子に合わせるだけで充分仕事が成り立つ。」と益子を勇気づけました。

しかし、おそらく濱田も、当時の益子の焼き物については信楽や笠間の写しで個性が乏しく全国的には商品力が弱く、更に市場が縮小していくことは見通していたのでしょう。そういった転換期の中で幸い、濱田を慕って多くの若手陶芸家が益子に集い活動するようになりました。

佐久間藤太郎、村田元、島岡達三、加守田章二、合田好道、瀬戸浩など多士済々の陶芸家が活躍し、さらにその後輩たちが希望を抱き益子に窯を競うように築き、メインストリートには数100メートルに渡り陶芸店や民芸店が軒を連ね活況を呈するようになりました。100年前には北関東のあまり知名度のない一窯業地だった益子は、その50年後には多くの陶芸家が腕を競い合い、さらに今や日本最大の窯業地へと発展していきました。


濱田は自らを育ててもらった益子への恩返しの意味も込め、自らの功績や名声を益子に還元することを大切にしました。工房を訪ねる若手の作り手には、自宅に招き入れ工芸談義をし、そのまま昼になればたっぷりと昼食を振る舞いました。まるで昼を食べに来ただけかのように見える若手にも、そんなことは承知の上でにこやかに食事を供しました。

自身の作風を真似る窯元が多く出始めたころに「厳しく取り締まり著作権を主張したらどうか?」と助言するバーナード・リーチに「真似をするうちにだんだんと自分の仕事になれば良いし、仮に真似が私の作を超えるようなことがあれば、それは立派なことだ。」と認めました。

真似をすることはやんわりと批判はするものの、その後の益子焼の発展を祈り温かく見届ける姿勢でした。その結果、益子は無個性な多産地の写しのスタイルから、濱田の作風を取り入れ健やかな民陶の味わいは残しつつ個性豊かで自由なスタイルの産地へと変わりました。

結果的には濱田庄司という一人の陶芸家の出現によって益子が大きく変わったわけですが、それまでの古いスタイルから思い切って変わっていく対応力が益子にあった、とも見て取れます。「オレがチームを優勝させてやる。」的なスター選手によくある独善的な利己的な姿勢ではなく、「益子のおかげで自分は育った。」と感謝の気持ちで利他的な姿勢で益子の発展に力を添えたわけです。

 


濱田庄司が変えたこと


 

一人の作家が町の窯業を丸ごと変えてしまった例は、珍しいです。日本の窯業地としては後発の益子焼は、民陶の産地として生活の什器を生産していましたが、前述の通りこのままでは窯業地としての発展の見込みが無い状況でした。

濱田は、まず益子焼に独自の個性や芸術性を加える指導をしました。さらに、益子焼の流通も変えていきました。それまでの益子焼は、窯元が問屋に商品を卸す業務的な窯業地で、観光客が散策する町ではありませんでした。「これからの時代は陶芸の販売店が必要」との濱田の指導により、民芸店ましこという陶芸専門店が町内にできたのは68年前のことです。

その後、益子町内には次々と新進作家の作品を扱う陶芸店、民芸店が出店し、それに合わせて観光客も増えてきました。益子は、東京から近い立地という好条件もあり、陶芸家の作陶環境にも都合良く観光客のアクセスも便利で、多くの陶芸家が工房を構え春秋の陶器市には合わせて約40万人の観光客が集まる町へと発展していきました。

また、民芸運動を通して濱田庄司は各地の手仕事の産地も指導に当たりました。それまで工芸品は、公家武家や寺院などが重宝した上手もの(じょうてもの)と地方の暮らしを支える手工芸の下手もの(げてもの)とに分かれていて、下手ものの仕事に関わる職人の多くは身分が低く折からの近代工業化で欧米などと同様に存亡の危機にありました。

柳宗悦と河井寛次郎と濱田庄司は、各地方の暮らしの隅々にも健康的な美しい手工芸品の産物があり、これらの職人たちの技術を絶やしてはいけないと、各地の産地を指導し応援しました。その際「下手もの」ではあまりに可哀そうだとのことから民衆的工芸と定義付け、略して民芸と呼ぶことにしました。

これまで価値の無かった下手ものに美を見つけ、その無欲な美を守る職人たちの誇りと自信を守り、身分の安定を約束しました。このようなこれまでの美の価値観を変える民芸運動により、日本が誇る手仕事は大量生産の近代化の波にのまれることなく、いまや世界に類を見ない多くの種類の手仕事の伝統産業を維持発展する国になりました。

濱田は民芸運動の理念のもと、京都、英国、沖縄、益子のそれぞれのステージの持ち味を充分に大切にし、またこの4か所での手仕事の共存共栄な関係を終生続け、英国、沖縄、益子の陶芸の地位向上に身を捧げこれらの産地の価値観の変化を呼び起こしました。また、これらの産地の発展が、濱田の作陶や民芸運動、収集活動や国際的な活躍などの旺盛な活動の支えともなりました。

図1・2 《クリックして拡大》



濱田 友緒 (はまだ ともお)
株式会社濱田窯代表、公益財団法人濱田庄司記念益子参考館 館長、MASHIKO Product代表。
1967年、栃木県益子町にて濱田晋作の子、濱田庄司の孫として生まれる。多摩美術大学と同大学院にて彫刻を学び、その後濱田窯にて修行を積む。1995年の初個展開催以降、日本全国、世界各国の美術館、大学、百貨店、ギャラリー、大使館、陶芸施設などで展覧会、講演会、陶芸ワークショップなどを開催。

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