守る型、破る型。

(こちらの記事は、マーケティングホライズン2019年5月号『アナログ技術は生き残れるか!?』に記載された内容です。)


「新宿は、日本三大染めの産地の一つなんです」
突然だが、この言葉にどれだけの人がピンと来るだろうか。

多くの人がイメージする「新宿」は、“超高層ビルが立ち並び、多くの人々が行き交う大都市”だろう。そういった先進的なイメージの一方、日本の伝統工芸である染色が、100年以上続く地場産業として根付いており、新宿は京都・金沢と合わせ、染色の三大産地の一つとされている。


今回は、その新宿に居を構える老舗の一つである富田染工芸(新宿区西早稲田)に伺い、この地における染色の長い歴史をたどりながら、染色の未来、そして日本の技術伝承をどう見据えているのかを尋ねた。


東京染小紋の起こり
東京における染色の歴史は室町時代にさかのぼる。しかし本格的に発展するのは江戸時代に入って武士の裃(かみしも)に小紋染が取り入れられてからだ。この染小紋は東京染小紋と呼ばれ、「江戸小紋」の名でも親しまれている。


特に小さな桜の柄は江戸小紋の名で呼ばれることが多いようだ。当時、諸大名の屋敷が置かれた江戸では、武士達は一目で藩や家がわかるように、裃の柄をきそって定め、それを自らのシンボルとした。


小紋に見る、武士の“粋”
「小紋」とは、「柄の小さな模様」という意味で、和紙で作られた型を使って染められる。遠くから見ると全く柄のない生地に見えるが、近づくとそのきめ細やかな美しい柄に圧倒される。そして柄には一つ一つ異なる意味が込められている。


「極鮫(ごくざめ)」とよばれる鮫の皮のような柄の場合、染めに使われる型紙には3センチ四方に約900個もの孔が彫られているというのだからその職人技に驚きだ。


そして鮫の肌は固いことから小紋にすることで鎧に例えられ、厄除け・魔よけといった意味をもつ。派手なものや贅沢が禁止されていた江戸時代の武士が、一見無地に見える小紋を、ひっそりと楽しんでいたところに粋の精神が垣間見える。


江戸時代も中頃になると、小紋は庶民のあいだでも用いられるようになり、それまでの品格を重んじる柄が自由な感覚の洗礼を受け、さらに磨かれていった。そして、染色に必要な良質の水が豊富にあった神田や浅草に多数の染色業者が居を構えていった。


新宿に根付いた染色の技法
しかし、明治に至る頃には川の汚れが目立つ様になり、染色業者は染色に適した水を求めて、神田川をさかのぼり、江戸川橋(現文京区)や落合(現新宿区)へと移転していった。これ以降、神田川流域には染色業者が集まり、特に現在の新宿区内の各地において発展していった。



富田染工芸が現在の場所で創業したのは大正三年(1914年)のことで、今年で105年目を迎える。その100年を超える歴史の中で、存亡の危機を迎えたことがある。それは、1964年に行われた東京オリンピックだ。


オリンピックを機に色々な環境規制が行われた。神田川も例外ではなく、水質汚染を理由に川の水が使えなくなり、当時は周辺に13軒ほどあった工房は次々に移転、廃業し、数年後には遂に富田染工芸1軒となった。今では新都心・新宿の数少ない地場産業の担い手として伝統の技を継承し続けている。


江戸以来の「手仕事」をどう守ってきたのか
実際に染めの体験をさせていただき、五代目・富田篤さんに話を伺った。その中で富田染工芸が技術を継承し続けられている理由には大きく下記の3つが挙げられるのではないだろうか。

1)型数の多さ
富田染工芸が保持する小紋の型は12万柄以上で、国内でも類を見ない型数の多さを誇る。着物を日常的に着る人が少なくなり染色の需要も減少するなか、一枚の型を彫ろうとすれば20~30万円がかかる。しかし、創業から100年以上蓄積してきた「職人の努力の結晶」こそが、現在につながる多様な創造の源となっている。


2)型破りの体現
基本的には江戸時代からの染めの技術を継承しているが、「時代に合わせた新しいものを取り入れよう」とする気合も先代達から引き継がれていた。今では着物だけに固執せず、現代のライフスタイルに合わせるような形でネクタイやポケットチーフに染色技術を転用。2020年の東京オリンピック・パラリンピック公式グッズとして風呂敷クロスも制作した。

そして2018年10月には、日本を飛び出し、パリ・ブランマントルで『パリのデザイナーさんよ』というタイトルで展示会を開催。集まった50人のデザイナーやファッション業界の参加者に対し「38cm幅の生地で洋服が作れますか?」と投げかけ、東京染小紋の染め体験をしてもらった。

そして、洋服用にアレンジして織った生地で新しい小紋柄の洋服が仕上がった。さらには、2019年3月にパリ・オペラ座にお店をオープンし、こういった新たな試みから生まれたものを世界に発信している。


3)手仕事に対しての誇り
近年では、着物の生地をインクジェットで染めているお店も増えてきたそうだが、富田染工芸は徹底して「手仕事」にこだわりを持っている。富田さんによれば「手仕事で出る多少のムラこそが、手の味であり、美しさである。着物を着た時も、手染めの生地の方が奥行きが出る」とのことだ。東京染小紋という“芸術的な感覚をもった日常品”を、自らの手で生み出すことこそが先人達から受け継がれてきた技術であり精神だと語った。



富田染工芸は、大都会新宿の地において東京染小紋の伝統を今日まで受け継いできた。その長い歴史がありながらも、思考停止に陥らず、時には型破りと言われるような新たな試みを続けてきた。そして、だからこそ、劇的な環境の変化を乗り越え、現在に至るまでその歴史を積み重ねることができたのであろう。


手仕事へのこだわり、そしてこれまでに積み重ねてきた膨大な型数という伝統と、時代の変化に合わせて新たな挑戦を続ける精神を受け継ぎ、富田染工芸は東京染小紋の歴史に今日も新たな1ページを加え続ける。

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蛭子  彩華  (えびす  あやか)
一般社団法人TEKITO DESIGN Lab 代表理事
クリエイティブデザイナー/ライター
1988年、群馬県前橋市生まれ。2008年、立教大学社会学部に入学。在学中の2011年、「次世代人財塾 適十塾(てきとじゅく)」に第1期生として入塾し、「社会課題を学生の柔軟な発想と、ビジネスの手法で解決すること」を指針に活動。卒業後は、商社系IT企業に入社。2015年、夫の南米チリ駐在を機に退職し帯同。そこでデザイナー/ライター活動を開始する。2016年、学生時代から取り組んできた適十塾の活動をさらにスケールアウトさせるべく法人設立。
「社会課題をデザインの力で創造的に解決させる」を軸に、行政・企業・個人など様々なパートナーと組みながら、事業を展開している。

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